8. 本で冒険する! 『談話言語学 ―日本語のディスコースにおける構成・レトリック・ストラテジーの研究』 くろしお出版 2004
文法から談話法へ
日本語研究では、まず、文法が重視される。しかし、筆者は、談話法とも呼べる談話現象に見られる規則のようなものを発見するのも、不可欠だと思っている。もっとも、談話法と言ってもその範囲は広く、該当する研究項目を網羅することは簡単ではない。しかし、本書の執筆にとりかかっていた頃、談話現象の全体像がイメージできる本をまとめることができるのでは、と感じていた。『談話言語学 ー日本語のディスコースにおける構成・レトリック・ストラテジーの研究』は、そのような(少々無鉄砲な)野望のもとに練られたプロジェクトに基づいている。
2000年代の初めまでに、筆者は、『会話分析』、『談話分析の可能性』、『情意の言語学』と、日本語の話し言葉と書き言葉をデータとして、広く日本語が実際に使われるその姿を分析していた。その頃、ディスコースを対象とした研究は、語用論、社会言語学、認知科学的アプローチ、コミュニケーション論、言語心理学、社会心理学と、広範囲に広がっていた。一方、日本の国語学の伝統には文章論があり、文章や段落の統括を中心とした研究があり、さらに文体論や作家論など、書き言葉の談話研究の伝統がある。また、もっと広く、クリティカル・ディスコース分析を中心とした談話研究のような学際的なアプローチもあり、その裾野は広がる一方であった。
本書で筆者は、これらの動向を追うことは目的とせず、あくまで談話における日本語の表現を直視して、観察・分析・考察することを試みた。談話を出発点とした言語学は、その領域、対象となる言語現象、分析の方法などが設立されていない。筆者は「談話言語学」という領域を打ち立てて、日本語のディスコースに焦点を当てた場合、どんなことが研究の対象となり、どんな研究が成され、またこれからどのような研究を進めるのが望ましいかを示しながら、その分野の全体像を描きたいと思っていた。
「談話言語学」という冒険
本書では、日本語の談話を基底で支える軸として、パトスのレトリック、出来事の概念化と主体のコメント、トピック・コメント関係、ディスコース・モダリティの重要性、などをあげる。データとしては、物語説明文、ショートショート、新聞コラム意見文、新聞記事、雑誌解説文、フィクション、およびノンフィクション、など、当時入手できる書き言葉を選んだ。
構造・構成面から、ナラティブ構造、トピック構造、ステージング操作、コメント文、時制、などをヒントに談話全体の意味を考察する。レトリック効果に関連して、談話のスタイル、特にダ体とデス・マス体、借り物スタイル、「だ」・「である」文のシフト、文表現のレトリックとして、受身文、否定文、そして筆者が会話導入文と呼ぶ文(「みたいな」で括る類似引用を含む)の研究を報告する。
文頭と文末のストラテジーとして、接続表現「だから」が論理的な意味を超えて、情意表現と会話行為管理の機能があることを指摘し、文末の「というか・ていうか」には躊躇感と本音が共存することを報告する。語句のストラテジーとして、固有名詞が使用されたり避けられたりする現象と、付託的表現効果を狙って使われる独立名詞句を分析する。
本書に報告されている各種の現象が明らかにするのは、言語はあくまで創造的行為であるということである。ディスコースには、それを創造した言語主体の情意を含む表現意図が表出し、単なる情報の伝達を越えた遊びやおもしろさ、そして情意が秘められている。そこには、あたりまえのことなのだが、主体が世界をどう見ているか、自分と相手や世界をどういう関係に置くのか、どんな自分を表現するのか、といった個人的な意味の創造がある。言語表現は、静的なものではなく、あくまで場で交渉されるダイナミックな談話の出来事としてあり、構成・レトリック・ストラテジーという談話法を駆使する行為なのである。
筆者は当時、日本語の談話現象の全体像を理解するために、「談話言語学」を打ち立て、その枠組みの中で発見できる「談話法」の構築をめざしていた。今思えば大きな冒険であったが、プロジェクトに燃えていた当時は、学問の流れとしてごく当然の成り行きであるように感じていた。いずれにしても、談話を出発点とする「談話言語学」は、未知の世界を残しながらも、ひとつの可能性のある枠組みとして提示できたのではないかと思っている。
パトスのレトリック
パトスのレトリックは、『談話分析の可能性』で紹介済みであるが、本書の重要な概念であり、日本語ディスコースの基本軸のひとつとして無視できない。日本語の談話表現はその内部にいろいろな矛盾を含んでいて、一概に言えない面もあるのだが、確かにある傾向が認められる。筆者はその日本語のディスコース全体に認められるレトリックの技法を「パトスのレトリック」と呼んできた。もっとも、日本語のディスコースのどれもがその特徴をすべて備えているわけではなく、ジャンルによってはそうでないものもあり、また、ある傾向、例えば名詞句による付託的効果を狙ったパトスのレトリックが頻繁に使われるディスコースと、そうでない場合とがある。
パトスのレトリックは、英語に代表されるロゴスのレトリックと比較して、概して次のような特徴がある。
言語の重要性が認められるロゴスのレトリックと比較すると、言語はあまり重要ではなく、補足的な役目をすると考えられる。
言語による伝達能力を信じるロゴスのレトリックに対して、言語による伝達には限界があるとされる。
主述関係が基本軸となるロゴスのレトリックに対して、トピック・コメントが重要である。
テキストに付随するコンテキストというロゴスのレトリックに対して、コンテキストはテキストに不可欠であり、場が重要である。
命題構成が重要であるロゴスのレトリックに比べて、命題を包む係りと結びの表現効果が豊富である。
主体が命題に現象をはめ込む役目をするロゴスのレトリックに対して、主体はコメントの発信元として機能する。
文構成が「する的」であるロゴスのレトリックに比べて、「なる的」である。
仕手の行動が重要なロゴスのレトリックに比べて、できごとに対するコメントが重要である。
テキストの冒頭で論点を示すことが多いロゴスのレトリックに対して、終わりで結ぶ傾向がある。
論理的なテキスト構成を成すロゴスのレトリックと比較すると、エッセイ的な構成を好む。
客観的な記述を重視するロゴスのレトリックに対して、自分の経験を中心とした記述が多い。
説得を目的とするロゴスのレトリックに対して、共感を目的とする。
パトスのレトリックと日本語のディスコースに関連して、ここで誤解のないように筆者の立場を説明しておく必要があるかもしれない。筆者はパトスのレトリックという概念で日本語のディスコースを捉えているが、だからと言ってパトスのレトリックが日本語だけに見られる現象であると主張しているわけではない。どの言語にも当然パトス的なレトリックが観察できるものと思う。また、先にも述べたように、パトスのレトリックはあらゆる日本語のディスコースにあてはまるものでもない。その傾向が日本語のある種の談話に確かに認められるとしても、ますます多様化している日本語のディスコース現象に同等に認められるわけではない。命題の情報を中心とした法律関係のディスコースや、取り扱い説明書の日本語には、当然のことながら、パトスのレトリックの特徴を余り観察することはできないだろう。ジャンルごとにおけるディスコースの表現性の違いは、将来に残された研究テーマである。
■この記事の執筆者
泉子・K・メイナード(Senko K. Maynard)
山梨県出身。AFS(アメリカン・フィールド・サービス)で米国に留学。甲府第一高等学校およびアイオワ州コーニング・ハイスクール卒業。東京外国語大学卒業後、再度渡米。1978年イリノイ大学シカゴ校より言語学修士号を、1980年ノースウェスタン大学より理論言語学博士号を取得。その後、ハワイ大学、コネチカット・カレッジ、ハーバード大学、プリンストン大学で教鞭をとる。現在、ニュージャージー州立ラトガース大学栄誉教授(Distinguished Professor of Japanese Language and Linguistics)。会話分析、談話分析、感情と言語理論、語用論、マルチジャンル分析、創造と言語論、ポピュラーカルチャー言語文化論、言語哲学、翻訳論、日本語教育などの分野において、日本語・英語による論文、著書多数。
くろしお出版から刊行の著書
■この記事で取りあげた本
泉子・K・メイナード
『談話言語学 日本語のディスコースにおける構成・レトリック・ストラテジーの研究』
2000年刊 くろしお出版
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