浦安とディズニーの話
浦安に住んで10年目になる。
浦安はざっくりと分けて、東西線浦安駅側(元町)と京葉線新浦安側(新町)に分かれる(と認識している)。
新町は埋め立てによって作られた街。埋め立ては2期に分かれており、経緯もいろいろあるがここでは割愛する。ただ、漁師町だった浦安にとって海を潰すということは漁業を営んでいる方々からすれば断腸の思いだったことは間違いない。
埋め立てによって住宅地が増加したが、一番のシンボルとなったのはもちろん先日40周年を迎えた東京ディズニーリゾート(1983年4月開演当時は東京ディズニーランドのみ)だろう。
東京ディズニーランドの建設においては開園よりもはるか前から当時の浦安町および漁業組合とのやり取りの資料が浦安市郷土博物館に残っており、とても興味深かった。開園が1983年(昭和58年)なので、その20年以上前から建設に向けてオリエンタルランドと浦安市は協議を始めていた。
(以下の写真はいづれも撮影可のもの)
その協議においてもやはり漁業者への十分な補償がフォーカスされていた。
浦安が甚大な被害を被った1949年(昭和24年)のキティ台風の被害からの復興の実現のためにもオリエンタルランドの誘致は必要と考えられていたのだろう。
浦安は漁業だけでなく、農業も営んでいた町だったとか。しかし、1969年に東西線浦安駅が開業すると、東京のベッドタウンとして人口の増加が進むとともに農家が消滅していった。
経済の発展、社会の進歩により街の風景が一変してしまうことが当時の住民の方々の目にどう映っていたのか。東京ディズニーリゾートもいろいろな人々の想いと思惑の上に成り立っている。
これから子どもが成長していくであろうこの浦安の変化を私自身の目でも見ておきたいと思いながら、イクスピアリのスターバックスでこの文章を書いている。(チャリで来た)
浦安とディズニーという話。