千々布敏弥『先生たちのリフレクション』を読んで考えたことについて
千々布先生といえば、怖かった先輩ですら恐れていた「めっちゃ怖い人」というイメージがある。何が怖いのかは、よくわからなかったのだけれど。
そのせいもあってか、自分は本書を読んでいると、なんとなく「ずっと叱られている」気分になる。それは多分、一つ一つの言葉が鋭いからだろう。また、著者自身が述べているように、全国津々浦々の研究会などで、同じようなことを何度も聞かれたり、目にしたりしているから、問題意識(怒り?)も高いのだと思われる。
では、著者は何を問題視しているのか?その怒り(?)の矛先は、現場の教師と、都道府県の教育センターの指導主事のそれぞれに向けられているように感じた。自分は現場の教師なので、この点についてのみ触れたい。
ちなみに、タイトルに挙げた本について触れているのは最初だけで、あとはそこから派生して考えたことになっているので悪しからず。
「信念」にとらわれた教師
「どうしたらいいんでしょうか」「教えてください」と聞いてくる教師に、辟易している様子が伝わってくる。よくいるマニュアル求める教師もこれに含まれる。筆者はそのことについて、「こうせねばならない」という「信念」にとらわれているのだと指摘する。具体的には、次のような信念を挙げている。
本書の主張と致命的欠陥
このような「信念」を持っていると、いくら言っても、何を言っても教師はなかなか変わらない(本人が変えようと思わないと変わらない)という認識が、筆者の根底にある。そして、それらの信念は、教師自身の「リフレクション」によって、変化していくという主張だと理解した。
なお、肝心の「リフレクション」については他者(バンマネン)の理論をなぞっているだけな上に、どのようなリフレクションによって、先生がどのように変わったのかという具体的な事例がないために、「よーし、今日からオレもリフレクションしてみよ!」という意欲をまったく喚起できていないという点が、本書の致命的欠陥ではないかと思う。ただ、リフレクションが必要だという点は理解できるので、リフレクションについては別に勉強しなおしたい。
「自分たちのことば」を失った教師たち
さて、千々布先生によって、血祭りにあげられている「教えてください」教師について、石井英真先生も『授業づくりの深め方』で、その問題点を指摘している。
このことに関連して思い出したのは、先日の勉強会で出会った、ある退職した先生のことだ。持ち込まれた膨大な量の実践記録を読ませていただいた瞬間、数十年前の教室の出来事のはずなのに、子どもたちの姿が次々と目の前に浮かび上がってきた。
その圧倒的な言葉。見取り。そして何より「この子たちを何とか育てたい」という愛情。「これを読んだら、自分も何かせずにはいられない」という思いに突き動かされたことを思い出した。
残念ながら、今の現場に、(勤務校だけかもしれないが)そのような熱い「ことば」をもった「職人教師」はほとんど存在しない。いるのは、「労働者としての教師」だ。
先生たちの事情―研究者の盲点―
一人の現場に立つ教師として、かつて「職人教師」たちが連綿とつないできた教育実践の文化は、この10年で途絶えたと感じている(少なくとも、自分の地域では)。だから、いくら文科省や研究者たちが「現場で工夫していいんだよ!」「学校、教師の裁量だよ!」「手法にとらわれないで!」「授業改善!」と叫んだところで、もはやそれを受け取って喜ぶ教師は少数派だ。
目の前にいる35人の子どもたちの中には、朝から泣きわめいて学校に行きたくないと叫ぶ子もいれば、授業についていけなくて、ずっとおしゃべりや手いたずらをしている子もいる。休み時間に友達とけんかをして、教室に戻ってこない子。酷いときには校地外に飛び出しているから、捜索隊を派遣しなければならない。放課後に「友達とゲームでトラブルになった!」と保護者から電話がかかってくれば、すべての仕事が吹っ飛ぶ。
そのような中では、どんな教育改革も、「上から降りてくるもの」であり、「やらされ仕事」と化しつつある…。それならいっそ、怒られたりやり直したりするのも面倒だし、「教えてください」と最適解を聞くのがコスパもいい。めんどくさい保護者からクレームが入っても、少なくとも授業については「今、国としてこういう方向性なんで」と言い訳も付く。だから私は、千々布先生が述べた「教師の信念」を、「先生たちの事情」という言葉に読み替えることにした。
千々布先生も、石井先生も、そういった事情を(知ってはいても)理解できていないから、「ああしろ」「こうしろ」と、「やること」を増やそうとしている。それはまた、ある意味では「研究者たちの事情」なのかもしれないが…。
変わりたくても変われない先生のこと
「先生たちの事情」に関連して、あともう1冊触れておきたい。一大ムーブメントとなった、川上康則先生の『教室マルトリートメント』に、こんな先生が登場する。
初めて読んだときに、衝撃が走った部分だ。「変わりたいけれど、変われない。でも変わりたいと思っている気持ちもある」こんな先生もいるのか、と。
先生たちは、「不安」という事情を抱えていると言っていいと思う。私は、そのことに気が付くのにずいぶんと時間がかかった。
児童・生徒指導はもちろん、保護者対応もそうだし、授業なんてもっとそうだ。そんな不安を抱えながら「学び続ける教師」として、授業を改善し、変化し続けることが求められている。分かっては、いる。でも、できない。そんな先生が今はいっぱいいるのではないかと思う。
じゃあ、どうする
本当は、がっつり教材研究をしていきたい。どんどん授業研究をして、互いを磨きあっていきたい。教師になったからには、授業にこそ時間をかけるべきだ。子どもたちや先生たちとともに、自分も成長し続けたい!そう思って十数年。私が目の当たりにしてきたのは「自分たちのことば」を失い、「学びから逃走する」先生たちだった。だから、今の先生たちに必要なことは、高い理想を掲げた校内研究でもなく、リフレクションでもないのだと思う。
もっと先生たちのことをしっかり見ることから始めたい。正直、自分の仕事で手いっぱいになりがちだけれども、「朝早いね」とか「よくやっているね」とか、先生たちのいいところを見つけて褒めて、そして不安には寄り添って、時には代弁者となっていくことが必要なんだと感じている。
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