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『チ。-地球の運動について-』は「美」そのものを描き出した。
★『チ。-地球の運動について-』というアニメが面白い
パートナーからのお勧めで見ていたら、結構面白い。
というか興味深い。なんというか、単純に面白いというだけでなく、今まで見たことない種類のアニメ、というか物語だなと思ったのでその辺りを話しながら、このアニメが本当に描き出そうとしているものは、一体何なのだろか? というものを私なりに書き綴っていこうと思う。
(ネタバレもあると思うので、要注意)
★真の主人公とは? ラファウと地動説と、その先に”在るもの”
今アニメは3話まで見終わったところです。そこで初めてこの物語の進め方というか、表現の方向性みたいなことが分かりました。
まず私はラファウが主人公で、地動説を追い求める学者としてのラファウの生き様を追いかける物語だと思っていたのですが、それがあっけなく3話の最後で死んでしまいます。
そしてラファウがフベルト先生から受け取ったペンダント?のようなものが引き継がれていくことで話が進むのだということが明らかになりました。
「なるほど!そうくるのか!」という感じですね(笑)
ただ、このペンダントが主人公かと言えば、もちろんそうではない。
ではそのペンダントが象徴するような「地動説」や、あるいは「知性」(ラファウが異端審問官に「あなたたちが戦っているのは知性だ」と言ってましたね)かというと、それでは私にはしっくりきませんでした。
確かにラファウが言うように、異端審問官や教会が戦っているのは一面的には「知性」かもしれません。
しかし、私には教会たちが真に戦っている相手は「知性」ではないと思います。
★真の主人公 それは知性の眼差す先に”在るもの”
『怪獣』というサカナクションの曲と共に流れるOP映像の冒頭は、ラファウが真っ直ぐな眼差しをこちらに向けていて、その顔、というより厳密には”目”からズームアウトしていく形になっています(この目というのは知性と太陽系のメタファーです。太陽系のような中心があって、まわりに地球のような丸があるのが分かると思います)。
ズームインではなく、ズームアウトというのが非常に重要ですね。
映像作品において、ズームアウトしていくときに最も”見せたい”もの、正確には”感じさせたい”ものは、最初に画面に映っていた対象ではありません。それを囲むものや、人であればその人が”見ているもの”です。
というと彼はおそらく星空を見ているわけで、”感じさせたい”のは「地動説」と言えると思います。単純にストレートに見れば。でも私はそのさらに奥にも”何か”を感じるわけですが。
★なぜラファウが主人公でないか
ラファウとも言ってもいいですし、あるいはラファウの前のフベルト先生や、ラファウの後に続くであろう「知性」の表現型としての天文学者にしても、彼らは主人公ではありません(おそらく)。
なぜそう思うか?
それはこの物語が、ラファウやフベルト先生などの天文学者の奮闘物語ではないと、私は考えるからです。
もしこれがラファウたちが主人公なら、ラファウは嘘をついてでも協会からの弾圧を逃れながら研究したり、あるいは少なくとも探究を道半ばで終える悔しさがないといけないと思います。
しかし、ラファウはむしろ ”とても安らか” に死んでいきます。
★なぜラファウは安らかに死ねるか?
これが主人公が誰かを明らかにするための核心です。
まずラファウがペンダントを自分の手で誰かに引き継げたかどうかは物語上は明らかではありません。仮に引き継げたとして、その人が上手く証明できるかなどということは分からないはずです。
けれども、ラファウが、哲学者であるソクラテスやエピクロスの名前を引き合いに出して知性を語るところから、ひとつの確信が彼の心の中にあることは間違いありません。
それは「知性」への確信です。
何をしようと、人から知性を奪うことはできません。
どれだけ本を焼こうが、学者を殺そうが、人から何かを正しく理解したいという願望を消すことはできません。
これは例えば仮に神を正しく理解したいと思っても同じです。神を理解するという行為は決して「聖書」を理解することに留まりません、そもそも聖書はこの正しい世界について述べられた唯一の正しい書物ですから。それを肯定する以上は創造したこの世界そのものを理解することもまた、神を理解したいという行為の延長線上にあるはずです。だからこそいわゆる中世といわれるような1000年~1300年の当時の神学者には科学者もたくさんいたのです。たとえば現代でも科学というのものの表現として「神様の手帳を覗き見しているだけだ」と言うこともありますからね。
★地動説がいつか証明されると、なぜ安心できるのか?
ラファウが安心できた理由は地動説がいつか必ず証明されるからです。
しかし、地動説は「なぜ」必ず証明されるのでしょうか?
それは「地動説だから」と表現すべきではないのは明らかですね、同語反復であり何かを説明したとは言えません。
そして私は、それこそが真の核心であり、真にラファウが安らかに死ねた理由であり、真の主人公だと考えています。
その答えは、実はたとえば『怪獣』の歌詞に現れています。
この世界は好都合に未完成
だから知りたいんだ
結論から言えば、この物語の主人公はこの歌詞に表現されるような意味のでの「世界」あるいは「真理」という概念そのものだと思います。またそれは一種の「美」そのものでもあると思います。
これからそれを少しずつ掘り下げていきます。
★最終的には「美」がラファウを安心させる
おそらくラファウが感じた「美」は、まさに世界そのものとしての「美」です。それはラファウたちが守ったり、つなぎ留めたり、解き明かしたりしないと守れないような、そんな脆弱な美ではありません。人間が何をどうしようが、その美は厳然と”そこに在る”ものなのです。人間は自分たちが理解し証明するために探究するにすぎません。だからこそ世界であり、それを知性によって知ったラファウは安心できるのです、なぜなら人間が知性を捨てられない以上、世界さえ失われなければいつかは「地動説」は証明されるからです。
よって、この物語が描き出すのはラファウたちの人生ではなく、「美」であり「世界」であり「真理」なのです。
★美しい「もの」ではなく、「美」そのものを描き出す
「美」そのものを描き出すとはどういうことか。
それは美しい「もの」を描き出すとはどういうことかを考えれば、逆説的に教えてくれます。
例えばこの物語の軸はそのままに、美しい「もの」を主人公にするとしたらそれはまさにラファウや、フベルト先生や彼らの後を継ぐものでしょう。
それは美しい「もの」としての生き様であり、執念であり、戦いです。
が、この物語に通底するものは、そういった姿勢ではありません。
例えばラファウがなぜ自殺を選んだかといえば、それは自分が拷問されれば容易に研究資料の場所を吐くと思ったからです。また裁判で入学許可状を破ったのは彼の体が「嘘をつく」ことが二度と受け付けない体だったからです。(お義父さんに神学をやめると普通に嘘をついたのシーン~の、ラファウのまわりにまとわりつく闇とか、嘘をついたあとに闇に飲まれるラファウであるとか、坂本真綾さんの演技なんかを見ていると読み取れるかと思います)
どれも真理への敬意ではありますが、研究者として清濁あわせ飲みながら研究するという生き様ではありません。
彼の姿勢はたったひとこと「確信」です。
ラファウはただただ真理を確信し、またいつか誰かが至るのも確信しているのです。
このときに私たちは何を感じたらいいのでしょうか?
私が思うに、もはやラファウは応援すべき対象でも、感情移入すべき対象ではありません。私たちにできることといえば、ラファウが見ているモノ、ラファウにある知性が眼差す先に”在るモノ”を一緒に見て、その美しさに圧倒されることだけです。そして彼ともに安心し確信することしかできないのです。
ゆえに私はこの物語が美しい「もの」を描くのではなく、「美」そのものを描き出した物語なのだと思います。
いやここから先が楽しみですね。
本当は「メイド・イン・アビス」とも通じる面白さや、逆に全然違うからこそ面白いというところまで話せたらよかったのですが、あまりに長くなりそうなので割愛します。すいません。
ぜひぜひ皆さんも『チ。-地球の運動について-』を見てみて、いろいろと考えを巡らせてみてください。
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