犠牲が正当化される事由について<反出生主義>
反出生主義について考える時、個人における反出生主義と社会における反出生義の二つの議論の土俵がある様に思われる。
前者においては「生誕害悪論」と「QOLの議論」が焦点となり、後者においては「功利主義」や「義務論」が焦点になるものと思われる(実際の議論は複合的に入り混じっている)。
特に反出生主義における実際の議論の中心は前者、すなわち「生まれてくることは当人にとって良いことか?」という議論である。焦点となっているベネターの非対称性論証に対する議論などはまさにコレだ。ベネターはそこから「生まれることよりも生まれないことの方が良い」とする所謂「生誕害悪論」を導いている。
前者に対して、後者は「では、我々(社会)は人間(有感生物)を生み出して良いのか?」というよりマクロな視点の議論である。このことについては、ベネターは自身の「生誕害悪論」から「個人にとって出生が害悪ならば、当然として出生させるという行為は許されるべきでない」と考えている(だったはず)。これは所謂「福祉の議論」だろう。
そして今回考えてみたいのは、この後者的な視点。
特に、出生させることの正当化には乗り越えるべき「犠牲」の話があるように思われる。これのわかりやすい例としては、難病者やうつ病患者、自殺者などだ。(もっと広く考えれば、障がい者や犯罪者もこれに含まれうる。QOLが低いあるいは望ましくない境遇を生きる人など、所謂「不幸な人」)。
生まれる人間全てに望ましい生を生きさせることが可能でない以上、出生というシステムはこの“犠牲”を少なからず発生させる訳だが、その犠牲はいかに正当化されえるのか。
正当化される場合の事由について、三つ思いついたものを述べてみる。
(約3200字)
1.犠牲者の利益とされる場合
第一の事由は「犠牲者の利益とされる場合」である。
わかりやすく言うなら「犠牲になったとしても、あるいは犠牲になった方が当人にとって良い」という考えである。
これには二つパターンがある。犠牲者当人がその利益を自覚している場合とそうでない場合である。
前者は生まれることが害悪であると当人が認識していたとしても、出生における害悪以上の出生の価値をも当人が見出しており、結果としてこれを利益と当人が捉えているパターンである。その利益とは、人類や社会への貢献、神への信仰、仏教における「悟る」機会などであろう。
自分の生そのものが望ましいものでなかったとしても、その生に自身を含むより大きなものの利益になると考えることで、“犠牲”になることを当人が許容(納得)する。そうして社会は、当人の許容という形でその犠牲を正当化できる。
しかし当然、全ての人がその様に考えることはない。
前者に対して後者は、そういった利益について当人が見出していなかったとしても、他者や社会がその利益を享受していると判断して、客観として犠牲が許容されるというパターンである。
生まれてくることの害悪の認識を持ち、自身がその犠牲者であるという認識を持っていたとしても、他者や社会は「君にとって君は生まれてきてよかった」という考えを持つのならば、当人の持つ意思は誤謬として処理される。そのことに当人が納得せずとも、他者や社会はその考えを元に当人が犠牲者であることを認めず、その犠牲は許容されるものとして正当化される。
この後者で問題になるのは、価値観の一方性である。
この場合、社会や人類、誰かや何か、あるいは神の為に犠牲になることが、当人にとって良いという一方的な価値観を当人に押し付けることになる。
「生まれて来たくなかった」と親に言ったら「私はあなたが生まれてきて嬉しかったよ」と返され「いやだから何!?」と思った、的な反出生主義者の愚痴を目にしたことがある(そう返してくれるのは良い親だと思う)。
この「親」を「みんな」や「社会」、「神」あたりに置き換えた様な文法は割と散見されるが、そういった「○○にとって良い」ことが当人の利益だと言い切るだけの根拠を提示する例は少ない様に思える(事、出生においてはこの根拠を論理的に提示することは難しい)。
自殺した人に対して「それでもその人は生まれてきて良かった」と他者が判断することは、優しい様に見えて、ただ一方的で楽観的な見方によって他者の不幸を看過してしまうことになってしまうのではないか。
そんな懸念を抱く。
現状として社会が出生による“犠牲”を正当化する事由として受け入れやすいのはこのパターンである。
2.大義を理由とする場合
第二の事由は「大義を理由とする場合」である。
これは「国や社会、人類、神などの為に生まれるべきだ」とする、社会主義、全体主義、あるいは神第一主義(?)的な大義を理由に、個人の“犠牲”を許容するという考えである。
第一の事由が「当人にとって良い」と考える個人主義的な立場に依るものであるのに対して、これはそのような個人の利益を尊重することを第一に考えてはいない。当人にとって良かろうが悪かろうが、例え必要悪であったとしても何かの為に生まれてもらう必要があるとする考えに依る。
これは他の多くの人の利益の為の犠牲として捉える功利主義的なパターンと、個人よりも優先されるべきものがあると考える義務論的なパターンがある。前者には共産主義、後者にはハンスヨナスの人類全体主義的立場があげられるだろうか。
ベネターが指し示す「生誕害悪論」から「反出生主義」が必ずしも導かれないという指摘の中には、この大義的な立場からの論駁がなされてもいたように思える。ベネターはこれをふざげた反論だと一瞥していた気がする。
現代においては社会的な意味で「子供を生むべきだ」という考えは、個人的な動機以上に嫌悪されるように思える(「3人産んで」発言など)。
その一方で、宗教的な意味で子供を作ろうとする立場は根強く残っている(イスラム教、キリスト教原理主義など)。
日本においてはこの立場が採用されることは今のところなさそう。
3.犠牲者に責任があるとする場合
第三として「犠牲者に責任があるとする場合」があげられる。
これは、そもそも“犠牲”の責任を社会が取る必要はないとする考え。
犠牲という結果に対する責任の所在について考えると、究極的にはそうなるに至った犠牲者個人の意思に責任があると考えることもできる。その為、過程はどうであれ、犠牲者個人が犠牲になるに至る選択をしたのだから、そのことに対して他者や社会が責任を負う事はないとする態度である。
究極的にこれを採用すれば、あらゆる結果はそうなるに至った個人の責任として処理される。
不幸な境遇に陥ったのは当人の努力不足が原因であり、「死にたい」「生まれて来たくなかった」などと嘆くに至るのもやはり当人に何かしらの負い目があるからである、という「自己責任論」によって、そもそも「反出生主義」などというものを考える必要はないとされる。
例えるならこれは、養豚場の豚が屠殺されるに至るのは、養豚場の豚に生まれて来て、そこから自由になることができない豚個体の能力の問題だと言って、畜産という殺戮システムの持つ責任を回避するという様なものである。
批判的に書いたが、この考えは私たちが日常的に採用しているものであり、それが生殖というシステムについても適用されるというだけの話でもある。
私たちは日常的に他者や何かを“犠牲”にして生きている。ただその“犠牲”を自己の責任として捉えていないだけだ。
ちなみに、これは人間社会的な意味における責任の話であり、予定調和説や運命論による必然性を採用するなら、宇宙的な意味において、そもそも一切の出来事に責任は生じないと考えることもできる(それをいっちゃおしまいって話だけど)。
4.まとめ
出生における犠牲が正当化される事由
・犠牲者の利益となる
・犠牲以上の大義がある
・犠牲者個人の責任とされる
…なんつってね。
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