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映画『セプテンバー5』レビュー:リアルタイム報道の功罪とは? 中継基地局から事件を見つめる90分
『セプテンバー5』を鑑賞した。
全世界がテロと対峙した衝撃の1日、その時何が起こっていたのか?
1972年9月5日ミュンヘンオリンピックでのパレスチナ武装組織「黒い九月」による、イスラエル選手団9名を人質にするテロが発生。
全世界が固唾を飲んで見守った歴史的なTV中継を担ったのは、なんとニュース番組とは無縁のスポーツ番組の放送クルーたちだった。
過激化するテロリストたちの要求、機能しない現地警察、錯綜する情報、極限状況で中継チームは選択を迫られる中、刻一刻と人質交渉期限は迫っていくのだった――
この作品は、上記の通りにミュンヘンオリンピックの際に起きたテロ事件を、オリンピック中継を担当していたアメリカの局がリアルタイムで全世界に配信した様子を、約90分という割と短い尺の中、全編に緊張感が走る中で描いた作品である。
当時の様子をセットの細部にまでこだわり再現され、携帯電話がないからこそのもどかしいやり取りなど、時代背景が十分に反映された点も特徴的に感じられた。筆者は、まだこの時代は生まれる前なのだが、多くの年配者は覆面をかぶった犯人などをテレビで見かけ記憶に刻まれているのではないだろうか。リアルタイムで視聴していれば、それほどインパクトがあった事件だと思われる。
そういった緊張感があふれるサスペンスな空気を感じ取り、筆者は鑑賞に赴くことになった。
〇事件の取材にスポーツ報道の視点を持ち込む危うさ
物語の冒頭は、水泳の競技を撮影しているところからである。
勝者の喜ぶシーンを追いかけようとしたところ、ディレクターからは一旦2位(敗者)の選手の顔を経由して、その後に勝者が喜び家族と抱き合うという流れを支持する。スポーツによくある典型的なドラマをカメラの追い方で演出したというわけだ。
これぞスポーツ中継の極意、ということを示したというのだろう
そう、この映画の主体はオリンピック中継(スポーツ中継)班である。
そこが一つの重要なポイントだ。
こうした、きれいな流れを追いかけることがスポーツ中継にとっての醍醐味だ。しかし、それは勝敗がクッキリと、かつルールに基づいて健全につくからこそ得られるドラマなのだ。
ルールのない殺伐とした事件では、そんなきれいなドラマは生まれにくい。
その対比が、作品を通じて描かれたともいえるだろう。
中継スタッフたちには、どことなく事件が大団円で締めくくられるという期待があったのではないだろうか。そんなきれいな終わり方まで生放送の中で報道できれば完璧だっただろう。
空港にて人質が助かったという一時的な誤報が出た際に、スタジオでは歓喜の声がわいた。そんな場面がそれを示していた。しかし、史実通りに事件は最悪な方へと向かう。きれいなドラマはそこにはなかった。
ラストの物悲しくスタジオの電灯が順次消されていく様は、まさにスポーツに生まれるドラマ性がそこにはなかったことを象徴しているかのようでやるせない気分に陥る。
スポーツ中継と報道との差異がそこに如実に表れたのではないだろうか。
〇「報道の視点に固定する」ことで生まれたリアリズム
舞台が報道基地局に限定された意義
この作品は、舞台は作品全編でオリンピック中継基地局内で完結している。途中、スタッフたちが事件現場である選手村や空港に出向くが、現場のシーンは全くない。犯人たちも、カメラ越しにしか映らないため、彼らの視点は一切ない。警察側の視点もない。つまりは、完全にリアルタイムで進行していたテレビ中継側スタッフのお話に徹底している。いかにして事件を報道したのか、が作品のポイントだ。
警察や犯人の視点が全く描かれないということは、それだけ事件を追いかける報道と問題点とにフォーカスしているのがわかる。
また、そんな基地局のあわただしいやり取りを密に追いかけることにより、緊迫感がみっちりと作品の中にあふれ出ていた。90分という短い時間が緊張感を持続させるのに役立っている。筆者も、ずっと没入感の中でおぼれていた。
報道陣だけを追いかけているので、観客側も事件の進行具合や人質の様子もわからず、隔靴掻痒な気分にも陥る。しかし、それは報道側の人間も同じだ。つまりは、観客と報道陣側の心理がシンクロしていたともいえるかもしれない。
報道陣の問題としては、「いい画を撮る」ことにこだわっていた印象が強い点だ。
そのためには、重いカメラを屋上まで運んだり、スタッフを偽装させて選手村に侵入させ映像を撮ったりするところに表れている。
屋上に展開した警察官の様子までも映していたがために、犯人側に警察の動きが筒抜けになる失態を起こしてもいる。
いい画を撮ることに対する執着心が裏目に出た証拠である。
オリンピック競技を追いかけているのならば、それこそ敗者の口惜しさと勝者の快哉とを対比するように撮ることには美が存在するだろう。しかし、そのこだわりを人の生死がかかわる場面に持ち込む事の正しさはあったのだろうか。
撮影の場面と意味を比較することにより、作品内で問いかけられていた。
ラストにスタジオの照明が消されるさまは、撮影の方向性に対するやるせない気持ちが現れたように感じられてならなかった。
〇どうしても比較してしまうショウタイムセブン
たまたま上映の時期がかぶり、同じようにテロを報道スタジオ中心に追いかけることになる作品という重なる点が多い作品なだけに比較してしまえる作品。そう、それが『ショウタイムセブン』だ。
筆者も、既に別の記事でレビューは書いてある、
同じ要素だらけではあるものの、ショウタイムセブンはかなりエンタメよりな空気だ。何よりも、ショウタイムセブンは主人公のキャスターが異常に目立つ作品である。キャスターありきの作品とも呼べる。
セプテンバー5では、キャスターは目立たない。むしろ、裏方が主役であり、裏方陣も特定の人間に注目が集まり過ぎない。主人公がいないともいえる雰囲気だ。ディレクターやプロディーサーらしき人物に集まると思いきや、ドイツ人通訳の女性にも視点が向く。その点が大きな違いだろう。
むしろ、主役の有無で非常に対照的な作品である。
〇「報道の自由」と「報道の責任」の間で
『セプテンバー5』は、報道の在り方そのものを問いかける映画だった
当時、まだリアルタイムに動く大きな事件に対する報道規制など明確になかったのだろう。それがゆえに起きた功罪が描かれもしている。
ドラマ性を追いかけるあまりに起きた失態とかなわぬ大団円。
報道の正しさが問われただろう。
しかし、この問題は現代社会にも言える。
テレビの報道ではなく、我々一般市民だ。
今やだれもがスマフォでリアルタイムに現場から状況を伝えられる。
そういった中で、我々のような素人がどこまで手を出していいのだろうか?
そこも真剣に考えなければいけないだろう。何十年も前に起きた失態を引っ張ってはいけない。
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