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<縁は異なもの粋なもの?>Don’t think! Feel JAZZ! 第三回 「歌の新米先生」
※黒田ナオコ過去コラム公開 2017年8月号のひろたりあん新聞掲載
<以下本文>
夏真っ盛りだ。この季節になると思い出す歌の仕事がある。私はジャズシンガーだが、駆け出しのころ、少しだけハワイアンバンドで歌の手伝いをしていたことがある。ウクレレを弾きながら夏祭りなどで歌ったりした。
この話をすると結構驚かれるので、たまにネタにすることもあるが、ダンサーではないので、あのハワイアンの衣装を着ていたわけではない。
その頃は、まだ駆け出しだったから、初めての「営業の仕事」はとても勉強になったものだ。ハワイアンバンドは、夏にはやはり「営業の仕事」が多くあった。
「営業」というと、一般的にはサラリーマンの外周りの仕事を指すことが多いが、ミュージシャンの間では、このように使う。
「今日はライブ?」
「今日は営業だよ。」
「営業?どこで?」
「赤坂のホテルだよ」
という感じ。
営業とは、パーティーや、ホテルのラウンジやバーなどでの演奏のこと。ジャズクラブやホールでの、ライブコンサート形式のものは、普通に「ライブ」と言う。
これは意外と一般の人には通じない。営業というと、保険の営業が真っ先に頭に浮かぶのかもしれない。
わたしは、24歳の時に商社OLを辞め、すぐに都内のジャズボーカルスクールの講師をはじめた。それまでは生徒だったのだが、退社を期にスカウトされ、講師になった。
まだ好景気の残り香もあり、お稽古ごととして、ボーカル教室はとても人気があった。都心だと特に、歌手を夢見て集まる人も多かったのだろう。
すぐに新宿校に配属された。新米先生だったが、容赦なく生徒たちが入会してきた。
正午にレッスンがスタートし、21時まで30分ごとに生徒が入れ替わる。そのうち生徒が増えてきて、ベルトコンベアー式に仕事をするようになった。だんだん生徒の名前と顔が一致しなくなってくる。そして、休憩時間も減り、30分の休憩で食事をしなくてはならない。しばしば新宿のサラリーマンに混ざって、立ち食いそばを食べたものだ。
あっという間に、80名以上の生徒を持つようになった。
しかし、生徒が支払う月謝のほとんどをスクールが持っていく。いま考えたら少し理不尽な労働だ。しかし駆け出しなので文句は言えなかった。
重労働ではあったが、私には、ピアノを弾きながら教えることも勉強だった。思い返せば、教えていた自分が一番学んだと思う。
その経験が今につながっているのだから、講師スカウトは運命だったのかもしれない。現在は、きちんと時間をかけた丁寧なレッスンを心がけている。生徒の個性を伸ばしたいと思うし、それぞれとの交流も大事にしたいと思うのは、この経験があったからこそである。
新宿での講師生活も、そう長くも出来なかった。しかし3年くらいは続いただろうか。
そんな折、わたしに、海外へ行くチャンスが訪れた。
新宿の街の喧騒の中、通勤していたジャズスクール。
その舞台は、アメリカに変わった。
私は、27歳で、アメリカの音楽大学の門をたたくことになった。
その話は、また次回にでも。
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※挿絵はRIO(娘)当時13歳
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