豊前小倉で活躍した、長岡姓を持つ細川家筆頭家老松井氏について
こんにちは、自称細川家の末端家臣です。
今回の記事は私の大好きな小倉城武将隊さまにも関わる事柄について……ずばり「長岡姓を持つ松井」について。
小倉城武将隊メンバーに「長岡佐渡」という人物がいらっしゃいます。彼は一般的に言われる「松井興長」という細川家筆頭家老を勤めた人物なのですが、役名としては「長岡佐渡」です。劇の中でも殿が「佐渡!」と呼んでおりますね。爆萌えです。
さて、この呼び方。「松井」なのに「長岡」とはこれ如何に?
そもそも、長岡という名称はどこから来たか、皆様ご存知でしょうか。誰? 長岡? 松井じゃなくて? そんなふうに思った方もいるのではないでしょうか。
今回はこの疑問についてご質問を頂戴したので書いていこうと思います。
松井興長とは
知らない方もいると思うので、先にざっくりと、この記事の論点となる松井興長について説明いたします。
松井興長は近世大名細川家の筆頭家老、松井家の出で、細川藤孝(幽斎)、細川忠興と仕えてきた松井康之の次男にあたります。興長は関ヶ原の時19歳で初陣を迎え、以降父の跡を引き継ぐ形で細川家を支えていきます。父親の薫陶を受け、また細川家という由緒ある武家の家老として文字通り生涯を捧げ、忠興から数えて4代に渡り主君の右腕として活躍いたしました。まさに家老の中の家老、最強の筆頭家老。それが松井興長なのです。ちなみに、かつて東京永青文庫さまで行われた【最強の家老展】については別記事を書いているのでぜひ読んでください。(宣伝)
何故「長岡」を名乗ったのか
この興長は関ヶ原合戦ののち、忠興から功績を讃えられて忠興の娘である古保姫を妻に迎えました。忠興の父、幽斎も若かりし頃に松井康之を婿として迎えているので、2代にわたって主君直々の娶せということになりますね。松井のこと大好きじゃん。
どうやら、この時期に長岡姓も賜っているようです。記録によると慶長6年の頃なので、すでに豊前国へ転封となった後のことだと分かります。(関ケ原の戦いが慶長5年です。)
また、古保姫に子が生まれなかったため、興長は忠興の六男(寄之)を養子として迎えることとなりました。家臣でありながら細川一門に等しい立場を与えられたことは父・康之の時代から言えることですが、妻、そして養子を迎えたことで、興長は更に自らの立場を盤石としたわけです。(ここに興長の意図があったかは分かりませんが、少なくとも細川忠興からの信頼は伺えます。)
「長岡」とは
では、主君忠興から賜ったこの姓、なんなのかというと細川家の旧姓です。別姓と言っても良いでしょう。
かつて細川藤孝(幽斎)は足利幕臣の立場から織田傘下は入った際、その姓を本来の家名である「長岡」へと戻しました。忠興もこれに倣い、少なくとも関ヶ原合戦の頃までは「長岡」(もしくは秀吉から賜った「羽柴」)を名乗っており、合戦絵図や古文書からも確認できます。
今回は長くなるので割愛しますが、要するに細川というのは足利幕臣だからこそ名乗れたものだったと言えるでしょう。忠興が「細川」と戻したのは徳川幕府傘下となって以降で、江戸時代はこの細川姓で家が続いていきます。
今でこそ「細川」という姓で統一して語られていますが、姓名の変遷を踏まえて文書などを見ると、どのような立場にあったのか、自覚していたのかが窺い知れるようで面白いです。
このように長岡は細川氏の旧姓であり、一門のほかは筆頭家老松井氏と次席家老米田氏の当主だけが許されたものでした。主君の姓を賜ることは名誉であり、またステータスであったとも考えられます。
松井家は、徳川時代は長岡姓で通し、明治になって松井姓に帰っているようです。現在、熊本県八代市にあるのも「松井文庫」ですね。無論、松井家の家臣(家老クラス)などには「松井」という姓を与えたりもしていますから、細川同様に、松井という名そのものを無くしたというわけではないということです。
余談ですが、小倉城武将隊にいらっしゃる「長岡佐渡」様はすでに養子・寄之様をお迎えされた後……ってことですね! つまり、武将隊に「松井寄之」がいても全然okという……! 以下略。
ちなみに、小倉城の隣にある小倉城庭園は、かつて松井康之様が最後のお屋敷として過ごされた場所。松井家が細川家と共に肥後へ移った後は、小笠原氏が管理し、五代忠苗の頃に改修と庭の大規模な造園を行って下屋敷としました。
個人的に、現在も松井の痕跡を感じられる場所で、大変素敵なところだと思っています。ぜひ、小倉へお越しの際にはこの庭園にもお立ち寄りいただければ嬉しいです。