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『綿考輯録』より、黒田官兵衛が忠興へ馬を貸した記述についてメモ
『綿考輯録』通称「めんこうさん」(って呼んでいるのは私だけかも……)を読んでいて気になった箇所があったので、現代翻訳ついでにアウトプットしておきます。
天正十八年に豊臣秀吉が北条氏攻めをした際の記述。その流れの中で、黒田官兵衛が細川忠興に「君は若いんだからこの馬に乗るといいよ」と馬を貸してくれたっぽい記述があったんですね。そうなの~!? 知らなかった~!
……というわけで、レッツ読み下し!
綿考輯録 第二巻 忠興公(上)P.87より
出水業書2(昭和63年)
三月、秀吉公北条家退治として御出馬、行列を九ッに分たれ、忠興君と丹羽五郎左衛門・溝口伯耆守は八陳也、忠興君弐千七百人ニ而、二月廿五日御首途被成候、秀吉公は三月十八日 $${\footnotesize一ニ十九日、又十九日駿府に着ともあり}$$ 御出京也、北条氏政・氏直父子小田原城に楯籠り、箱根の山中に砦を構へ、北条右衛門大夫氏勝を籠置て防之、韮山の城をは同美濃守氏規 $${\footnotesize一ニ氏親}$$ 数千の人数を以守之、其外堅固ニ手当有之、上方勢の先手ハ秀次を大将とし中村式部少輔一氏等其勢五万余山中の城を攻、同廿九日城陥る、
此時忠興君は三島の谷より敵来る事も有へきとて、其押への為黒田官兵衛御一所ニ御座有しか、山中の城に火の手見へける、忠興君駈付ヶ度思召候御様子を黒田氏被見、我等は不苦、其元ニは若き故此馬に乗給へとて、大竜馬と云秘蔵の馬を借シ進しら候 $${\footnotesize無双の逸物にて、如水かハらの城を被乗し時も此馬也、一云大竜寺}$$ 、忠興君御喜悦有、打乗て御駈被成候ニ、道の嶮易ともなくこへつほの上をも飛こへける程に、今壺の内へ打込るゝかと思ひしに、時の間に山中に駈ヶ付ヶしと後に被仰候也、此山中の城、攻手中村式部少輔の内にて渡辺勘兵衛・薮内匠正照等か其働隠れなし $${\footnotesize内匠は後御家に被召出、奥に詳に出す}$$ 、
天正十七年(1590)の記録です。これによれば、この年の三月、秀吉は京を出発して北条攻めに繰り出します。武者行列は九つに分かれ、忠興はこの中第八陣目に参列していたようです。兵の数は二千七百人、「御首途被成候」とは「ご出立なされた」くらいの意味です。
北条攻めは箱根の山中でも繰り広げられ、北条一族は各城へ籠り守りを固めていた様子。これに対し、上方=秀吉軍の先手は秀吉甥の秀次が大将、「中村式部少輔一氏等其勢五万余山中の城を攻」め、二十九日には城が落ちた、とあります。
さあ、このあと。
忠興公はこの城攻めの際、「三島の谷より敵来る事も有へき」と言って、その抑えのため、黒田官兵衛と共にあったようです。
「三島」とは現在の箱根湯本(お正月に大学生の箱根マラソンがあるところです)から芦ノ湖を越え、さらに西へ行った位置にあります。東海道新幹線沿いに三島市がありますね。そのすぐ上、現在の裾野市あたりは確かに、東西を山に挟まれ谷のように思えます。昔はどうだったのかなー。今も割と「谷間にある町」って感じがするので、昔はもう少し谷感あったのかもしれません(谷感?)信長の野望やらないと地図が思い出せない。
山中の城に火の手が上がるのを見ると、忠興公は「駈付ヶ度思召候」=「駆けつけねばと思われて」くらいでしょうか。自分たちも行かねば! ってなったのかな。良い位置から山手の城攻めを見ていたのかもしれません。
「御様子を黒田氏被見」=「忠興公のその様子を黒田官兵衛殿が見て」
「我等は不苦、其元ニは若き故此馬に乗給へ」とて=「我々は苦しくないので、あなたは若いのだから、この馬に乗りなさい」くらい? 「苦しくないので」というのが直訳で、それこそ苦しい訳なんだけど、現代っぽく言い換えるともう素直に「自分たち(黒田勢)は支障がないから=徒歩で問題ないから」くらいに汲み取っても良いような気がします。後に続く「其元ニは若き故」が、この時の官兵衛と忠興の年齢差を感じさせて良いですね。
黒田官兵衛は年代で言うと細川藤孝、織田信長より十二歳ほど年下になります。この時数えで四十四歳、時代的にはなかなか後半の年代とも感じられます。
官兵衛の嫡男、長政は忠興より四~五つほど年下ですが、血気盛んな忠興の様子を見て我が子の姿を思ったりしたのかもしれません。と言っても、この時忠興は数え二十七歳、長政は二十二、三歳くらいでしょうか。
そして「大竜馬と云秘蔵の馬を借シ進しら候」とあります。「大竜馬」という名前の、秘蔵の馬を貸してくれた、と。この場合の「進」は「勧」と同義で、貸そうかと官兵衛のほうから忠興に勧めてくれた、ということかと思います。
注釈で「無双の逸物にて、如水かハらの城を被乗し時も此馬也、一云大竜寺」とありますが、細川家の記録書である『綿考輯録』に「無双の逸物」とあるくらいですから、よほど良い馬だったのかもしれません。ですが、インターネットで検索しただけではヒットしなかったので、『黒田家譜』などをしっかりめくってみる必要がありますね。「かハらの城を」とあるので、後の九州征伐の先、先発隊として豊前に乗り込んだ官兵衛(如水)はその頃にも、この「大竜馬」という名の馬に乗っていたことが想像されます。
忠興はいたく感激した様子で書かれています。その馬の乗り心地も書いてあるので、なんだか読みながら三国志演義で有名な「赤兎馬」を思い出してしまいました(笑)
「時の間に山中に駈ヶ付ヶしと後に被仰候也」=「あっという間に駆けつけることができたと後に仰せだった」でしょうか、立派な馬だったことが分かりますね。
黒田家、黒田官兵衛にゆかりのあるこのお馬さんのこと、ご存じの方がいらっしゃいましたら是非教えてください。私もそのうち黒田家譜など捲ってみたいと思います。
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