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練兵場から鎌倉道。いくつも越える川跡

23区全区境踏破第32回

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 前回終わりの池尻大橋駅から出発です。駅の東口と南口の間に、国道246号から別れる道があります。大山街道の旧道です。ここに入り、二つ目の路地に入って左に進んでいきます。この道が目黒区と世田谷区の境です。道路右は世田谷区池尻。左は目黒区東山です。
 江戸時代には目黒村と世田谷区の馬引沢村を分ける道がこのあたりを通っていたようですが、当時はどのような道筋だったのかはよくわかりません。というのもこの先は明治に入るとまもなく広大な駒沢練兵場となり、道も何もなくなってしまったからです。

 この演習場では主に砲兵隊が演習を行い、演習といっても砲を撃つより、主に馬に砲を引かせて移動したり陣地構築したりする訓練をしました。
 道が突き当たる右側には大きな倉庫があり、現在ヤマト運輸、生協の倉庫として使われていますが、これは戦前は糧秣廠馬糧倉庫として、付近の軍馬のえさ、まぐさを貯蔵しておく施設でした。昭和の初めに建てられたようで、屋根の鉄骨組が古い形のものです。

旧陸軍糧秣廠馬糧倉庫

 突き当たりの東山公園を右からぐるっと回り込み裏に出ます。東山公園にはかつてつくば市に移転した国土地理院があり、公園内にその記念碑があります。
 区境は公園の南西端から右斜め方向に進んでいますが道がないので、公園裏の道に入ると右側は自衛隊三宿駐屯地、左側は防衛省職員宿舎です。そのまま進んでややクランクして東山いちょう通りも越え、さらに進みます。
 突き当たりを右斜めに行き、自衛隊用地沿いに進みます。塀沿いに進むとやがて管理者が変わり、国家公務員共済組合の三宿病院になります。病院の正門に出ますが、東山公園からここまで、戦前は全て練兵場敷地でした。いかに広大かがわかります。
 ここまで区境は自衛隊駐屯地内や病院内なので歩けません。病院入口からは野沢通り(龍雲寺通り)へ向かって信号を渡り、向こう側の坂に降ります。この道が区境です。信号右角に庚申塔を兼ねた江戸時代の道標が残ります。「北 めぐろ、西 せたがや」などの文字が読めます。
 すぐ先の三叉路を右に行くと蛇崩川跡の緑道に出ます。緑道を横切る下馬通りが区境で、これを左に行くと道路の真ん中に「葦毛塚」があります。ちなみに「下馬」という地名は「下馬引沢」の略で、とんでもない地名文化破壊です。葦毛塚は源頼朝の乗っていた葦毛の馬(白っぽい馬)が死んだので埋めた場所だとの伝説があります。

 塚のある道路が区境になりますが、塚は全て目黒区のようです。この道がこれから1.7キロほども区境として続きますが、住宅が延々と続き、ちっとも面白くありません(笑)。江戸時代は上目黒村や碑文谷村と下馬引沢村との境の道だったようで、中世の鎌倉道だとも言います。
 前回ご紹介した都道420号を横切り、さらに駒沢通りを横切る手前には、以前ご紹介した品川用水が流れていましたが、まったく痕跡がありません。そこを過ぎると碑文谷公園のテニスコートなどが左側にあり、公園を過ぎて二つ目の十字路の次に、右側に登る薄暗い道があります。こちらへ区境は曲がります。
 登ると環七に出ます。戦後すぐの地図を見ると、葦毛塚からの道が現在の環七にあたる道と交差するまで区境が伸びているように見えますが、現在はこの坂がはっきりと区境です。いつかの時点で変わったようです。
 しばらく環七沿いを北に進み、駒沢陸橋を過ぎて「野沢」交差点で左斜めに入る道が区境です。この交差点は変則5叉路ですが、北側の道は先の品川用水跡です。ここで目黒区全体の形を思い出してください。この環七から南西の部分は、何か別の区域をくっつけたようで不自然に世田谷区に出っ張っているように見えます。
 これは1889年の町村制施行の際、世田谷寄りの衾(ふすま)村と目黒寄りの碑文谷村が合併して碑衾(ひぶすま)村が誕生したことによります。どちらかというと世田谷にゆかりの多かった衾村なのですが、なぜかこの時に碑文谷村とくっついてしまい、以後出っ張ったままです。現在は八雲地区と呼ばれています。
 住宅街の道は駒沢大学駅近くの自由通りまで続きます。自由通りを左に曲がり、少し行くと駒沢公園に入る緑道があります。それが区境です。公園に入ると敷地内を境がくねって行きますが、道はないので外周道路を歩きます。
 1964年の東京五輪に向け駒沢公園を整備する際、区境だった谷を埋めて土盛りして敷地を広げました。そのため今は平坦な場所を区境が川のように曲がりくねっています。駒沢通りをくぐり、外周道路の南端まで行くと南側に深沢ハウスという巨大マンション群があります。かつての都立大深沢キャンパス跡です。
 通り抜けできますので、きれいに整備されたせせらぎなど見ながら進みましょう。マンション南側の深沢学園通りにはいまだに「都立大学理学部前」というバス停があります。通りに出たところから保育園脇の道に入ります。そこが区境です。
 二つ目の角を右に行き、やはり二つ目の路地を左に降ります。宮前公園脇を降り、呑川跡の緑道まで降ります。区境は右手の住宅の中を通っているのですが、道がありません。
 緑道を右に行くと、目黒区と世田谷区の境がはっきりわかる場所があります。緑道の世田谷区側は花が多く、きれいに整備されています。行政や地域の姿勢の違いがはっきり出ています。
 緑道を世田谷区側に少し進んで、最初の路地を左へ登ります。目黒通りに出ますので、目の前の歩道橋を渡ると産能大があります。左脇の道を降り二つ目の路地を左、突き当たりを左、で道なりに進んでいくと「自由が丘」の標識が目につくようになり、まもなく今度は九品仏川緑道に出ます。これを左です。
 ここまで区画整理された道路はほとんど区境に沿っていませんでしたが、この先緑が丘駅までこの緑道=川が区境です。
 自由が丘駅手前で区境は鉄道に阻まれますので、右手の踏切を渡りすぐ左、また左と曲がります。その先、駅下の東横線ガードには昔の自由が丘の写真が掲げてあります。「自由が丘」というハイカラな名は戦前に創立され、今も残る「自由ヶ丘学園」に由来します。戦前に駅名を「衾駅」から変えた当時の人はすごいですね。戦中には軍部から改名を迫られたそうですが、地元の人は応じませんでした。黒柳徹子さんが通った「トモエ学園」はこの学校から分離した小学校部門です。
 駅南の緑道はベンチなども多く、木陰もあり、おしゃれな店が並びます。でもここが境なので南北で区が違うのです。自由通りを越えると店は少なくなり、住宅地へと変わります。暗渠脇の踏切で大井町線を越え、緑道をしばらく進むと今度はガードで線路をくぐります。
 出たところが緑が丘駅で、区境は緑道から続く公園に向かいますが、線路で行き止まり。目黒線の踏切へ向かって、南へ進む道の少し右側を区境は走っています。この先はなぜか目黒区が細長く飛び出しています。
 奥沢中学校や大音寺のある丘を右手に見て進むと、左側の道がやけに広い、歪んだ十字路に出ます。ここが大田区を加えた三区境です。左に曲がって地表に出てきた呑川まで行きます。今度はこの呑川が大田区との境です。左へ歩き二つ目の橋を渡りましょう。区境はもう少し北に進んでいますが行き止まりですので、橋を渡った方向に進み、正面の急な階段を登ります。
 階段の先は東京工業大学構内です。区境は構内を横切り、駅前の大学正門あたりから駅前広場左角の道を北へ進みます。この道は江戸時代以前からの道です。商店街が続きますが、しばらく行った左側の豆腐店手前で右に入ります。区境はもう少し先のそば店あたりまで伸びているのですが、結局戻ってきますので。
 入った路地はすぐに右に曲がりまた左へ、するとやがて右手に鬱蒼とした森が現れます。今も水が湧く清水窪弁天社です。
 道なりに進むと環七に出ます。少し先の歩道橋を渡り、左側を進んで二つ目の路地を入り、道なりに進むと目黒線洗足駅そばに突き当たります。区境はまっすぐ進んでいるのですが塀があって通れないので、駅入り口まで進んで、道の先に戻ります。右側に昭和大学歯科病院があります。さらに進むとまもなく、品川区境歩きの時にたどり着いた、三区境です。洗足駅に戻って帰りましょう。次は大田区です。(14.1キロ)

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歩いて、探して、歴史を発掘する黒田涼
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