「大東文化大学発祥の地」
廃れた儒学の振興から始まった大東大
★ジャンル【学校】
★場所 千代田区富士見1−11−8
★最寄駅 東京メトロ、都営地下鉄九段下駅
★碑文
「本学の前身である大東文化学院は、大正十年の貴衆両院による「漢学振興に関する建議案」の決議に由来し、大正十二年九月二十日、この地に設立された。その後,、昭和二十四年四月、新制 大学の認可を得, 現在の大東文化大学 (板橋区高島平1-9-1)として発展し来っている。ここに、その歴史を刻し、建学の 志を新たにする。」
★解説
プレートは白百合学園小学校北西側十字路角の区営住宅前にあります。
大東文化大学というと、ラグビーとか駅伝といった体育会のイメージが強いですが、建学の趣旨は、その名からも想像できる通り、東洋文化の見直しにありました。
明治維新後に次々とできた大学の設立趣旨はほとんどがヨーロッパの学問に基礎を置いたものでした。世間の風潮としては、江戸以前の学問、特に儒学は役に立たないものとされ、まったく廃れてしまいました。
こうした西洋偏重に対する反発の機運はあったものの、大きな力となるには明治末から大正時代に入るまで待たなければなりませんでした。
これは日清、日露の両戦争を勝ち、日本が東洋の大国としての自信を付けると同時に、国粋的な思想が台頭してくることと軌を一にしているものと思われます。
大東文化大のサイトなどには、大正時代に「漢学振興運動」が起こり、1921年(大正10年)に「漢学振興ニ関スル建議案」が出された、とあります。この運動の実態は大東大のサイト以外ではよくわからず、どの程度の運動だったかは
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?