「成蹊学園発祥之地」
岩崎小彌太の援助を受けた大正自由教育運動の旗手
★ジャンル【学校】
★場所 豊島区西池袋1-91丁目9
★最寄駅 池袋駅
★碑文
表面
「桃李不言 下自成蹊」
裏面
「日本に西洋文明を導入した明治の教育から半世紀を経て知育の偏重の画一教育に傾いてきた時 教育界の先覚者中村春二先生は体験と個性尊重の新教育を標榜して明治四十五年この地に成蹊実務学校を創立し今日の成蹊学園の基を開かれました。不言実行をその精神とし表記の句により成蹊と名付けられたのであります。先生を偲ぶ御命日枯林忌に際し、昨年の学園創立五十周年を記念して同窓会の成蹊会がこの碑を建てることになりました」
★解説
池袋駅西口をルミネのあたりで出ます。ルミネ前の通りを南に行くと右の角に「元池袋史跡公園」という小さい公園があり、「池袋地名ゆかりの池」の碑とともにあります。碑の前に手すりが造られてしまって碑面が読みにくいです。
碑文の漢文は「桃李(とうり)ものいはざれども 下おのづから蹊(こみち)を成す」と読みます。意味は「桃や李(すもも)は何も言わないが、美しい花や良い香りの果実を求めて人が集い、その樹木の下には自然と蹊(こみち・小道)ができる」というものです。
これは司馬遷(しば せん)の歴史書「史記」の「列伝」にある前漢時代の李広(り こう)将軍を讃えた文章です。李広将軍は前漢の文帝から武帝に仕えた武人で、匈奴戦にたびたび武功をあげ、「飛将軍」と恐れられました。しかし高齢になると他の将軍配下とされ、運わるく戦いに遅れたことを責められると自害します。
李広は清廉で部下思いの人物で、司馬遷の文章はそのことを著したものです。一方で上には正当に評価されず、李広の死を部下や民衆は悲しみ嘆いたと言います。李広の孫が、中島敦(なかじま あつし)の小説に描かれたやはり悲運の将軍、李陵(り りょう)です。ちなみに俳優の松坂桃李(まつざか とおり)の名はこの故事から取られた本名です。
さて成蹊学園は、明治から大正の教育者中村春二(なかむら はるじ)が1906年に文京区西片の自宅に設けた私塾が始まりです。中村は国文学者の長男で、東京
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