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「与兵衛鮨発祥の地」「与兵衛すし跡」(握り寿司発祥の地)

「鮨」の歴史では新顔の「にぎり」は幕末に誕生

★ジャンル【食】 
★場所 墨田区両国1-8-7
★最寄駅 東京メトロ都営大江戸線両国駅

これまでの23区発祥の地一覧

★解説文
与兵衛鮨発祥の地解説
「この横町の左手に、江戸握り鮨発祥といわれる与兵衛鮨がありました。文政の初めに、初代・小泉与兵衛(一七九九 〜一八五八)により大成されました。小泉与兵衛は、霊岸島の生まれでしたが、次々と商売を替えて、本所で暮らすようになりました。その頃に、大阪風の押し鮨にあきたらず、これを江戸風に鮮度を保ち、手早く造る方法を工夫しました。始めは、毎日岡持に鮨を入れて売り歩きましたが、評判を呼ぶようになり、屋台を出し、後には店舗を開くほどになり、殺到する注文に追いつけない繁盛ぶりだったと伝えられます。当時の狂歌にも「鯛比良目いつも風味は与兵衛ずし買手は見世にまって折詰」などと人気のほどを伺うことができます。また、食通の武士の注文に応じて与兵衛が創案した「おぼろの鮨」も大変な人気となりました。屋台で山本のお茶を出したことも人気に拍車をかけました。以後、昭和5年に惜しくも廃業しました」

与兵衛すし跡の解説文
「現代に伝わっている江戸前の握り鮨ができたのは、約二百年前の文政年間で、小泉与兵衛が考案したといわれてます。当時は鮨といえば大阪風の押し鮨ばかりだったところを、酢で締めた飯の上に、ワサビをはさんでネタを乗せて握って屋台で立食いするという新しいスタイルの鮨は、一挙に江戸っ子の人気となりました。与兵衛は、握り鮨を岡持ちに入れて盛り場を売り歩くことから始め、屋台、裏店での店売りを経て、文政七年 ( 一八二四 ) に元町 ( 両国一丁目 ) に店を開きました。この成功によって鮨屋という形態が確立し、鮨屋が増えるに従って、職人が腕を競うようになり、一大食文化を築きました」

★解説
 両国駅から京葉道路に出て両国橋に向かいます。両国一丁目交差点で左折し一の橋通りに入ります。左手の両国幼稚園向かいの歩道上に「与兵衛鮨発祥の地」の解説版があり、少し先の脇の路地を右に入って右側の小さなマンション植え込みに「与兵衛すし跡」の高札風解説版があります。
 二つの解説版がなぜ離れているのか理由はよくわかりません。前者は墨田区教育委員会の設置で、後者は墨田区産業観光部観光課の設置です。お役所の縄張りの違いですね。後者の方が奥まっているのは、こちらの方がより実際に店のあった場所に近いようにも思えますが、よくわかりません。
 現代の我々は「寿司といえば握り寿司」と思っていますが、握り寿司が生まれたのは幕末であり、今のような新鮮な刺身が乗った寿司が全国に普及するのは戦後のことです。寿司の歴史はおそらく弥生時代ごろからのものでしょうから、寿司の歴史からすれば本当につい最近の話なのです。
 古代に生まれた頃のは「発酵食品」でした。蒸した米の中に魚を入れて発酵させて、魚だけを食べました。食べるときには発酵のためのご飯は捨てていたのです。この発酵には時間がかります。これを短くしようとしてきた

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