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用水絡みの区境と歩けない場所が多い品川区北西部

23区全区境踏破第29回

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 今回からまた西に戻って、品川区の区境です。なんでそんなに行ったり来たりするんだ、って? はい、それはこの区境散策は公式な23区の順番に沿って進めているからです。
 東京の区の順番は明治時代に区ができて以来、皇居を中心に時計回りに「の」の字を描いて遠くになる順、と決められているのです。千代田区、中央区、港区、新宿区・・・の順ですね。文京区、台東区の次は墨田区、江東区と来て、次は旧15区の最後、品川区に戻ってきます(品川区はその後荏原区と合併しますが)。旧15区がほぼ現在の区域の35区に拡大した際は、南の荏原郡から時計回りとし、郡内では旧15区に近い方が先、と決めました。
 戦後23区再編時もその原則を踏襲しており、品川区の次は旧荏原郡で市域に近かった目黒区で、大田区、世田谷区と続きます。渋谷区がその次なのは感覚的におかしいのですが、渋谷区は旧豊多摩郡で、郡の順番が荏原郡の後だったからです。

 こんなことを知ってもあまり役には立ちませんが、唯一、23区名を全部挙げようとしたときに、このルールを覚えていると漏れなく列挙できます。
 さて横道にそれましたが、品川区境は港区編17回18回で北の区境は歩きました。そこで今回の出発地は恵比寿駅です。ここからまず第18回で到達した港区、渋谷区との三区境を目指します。
 恵比寿駅近くの恵比寿ガーデンプレイスを抜け、恵比寿ビール記念館の裏側に出ます。するとガーデンプレイス内を通るプラタナス通りの向こうに、ウェスティンホテルの裏へ回り込むような道があります。この道は渋谷区と目黒区の区境で、先取りして歩いてしまいますが、ここ進むと下り坂になり、下り切った道を少し左に行くと品川区を含めたと三区境があります。高台側の白い高級そうなマンション前のT字路の交点がそうです。周りを見ると各区の道路標などが路面に入り乱れています。このあたりまで昔は、目黒区となった旧三田村と渋谷区の旧下豊沢村の境でした。
 さらに進んで首都高下あたりが18回で訪れた品川区、港区、渋谷区の三区境です。先の三区境とは100メートルほどしか離れていない4区接近地帯です。
 道を戻って品川・目黒・渋谷の三区境地点に戻ります。品川区境は三区境地点からの脇道の奥にありますが、住宅が建て込んで歩けないので、恵比寿ガーデンヒルズ沿いの道をJR線方面に登って行きます。この付近の区境は江戸時代からある三田用水の分水路の一つの川で、江戸時代は両岸とも三田村でしたが、明治になって川の南は品川区になりました。
 水路の山側高台は「長者丸」といういかにも縁起の良さそうな高級住宅地です。なんでも中世に長者が住んでいたとか。宅地にしたのは吉田弥一郎という明治・大正の呉服商で、記念碑が少し離れた場所に立っています。この人が言われを作った可能性が高いような・・・。
 道が突き当たったJR山手線は高架ですが、埼京線は狭い踏切になっており、そちらを渡ります。線路を跨ぐ区境は真っ直ぐなのですが、道はつづら折りで、坂を登り切ったT字路の左右の道が三田用水跡です。水路跡の向こう側は品川区で、水路跡を右へ行くと右手に伊藤ハムの本社。正面に赤い球体で有名な日の丸自動車学校があり、その裏門までの道路(旧水路)部分が品川区です。学校正面脇に三田用水の解説板があります。
 学校前の目黒三田通りを左、目黒駅に向かいます。区境はもっと右奥にあるのですが道がありません。この境は中目黒村との境と思われます。ホテルプリンセスガーデン脇の坂は、東京では絶滅寸前の富士山が見える坂です。一帯は江戸時代には島原藩松平家の下屋敷があり、千代が崎という景勝地でした。

ホテルプリンセスガーデン脇坂上から見た富士山

 目黒駅に出たら権之助坂を下り、最初の路地を左です。有名なとんかつ店「とんき」が道沿いにあります。お店は目黒区。前の道が区境です。ちなみに目黒駅は完全に品川区です。
 とんきの先は急坂の行人坂。先の権之助坂はこの行人坂の急坂を嫌って江戸時代に開かれたと言います。坂途中には行人坂大火の火元となった大円寺があります。見どころが多いので是非寄りましょう。焼死者供養の五百羅漢像の後ろの崖が区境ですが、ここも通れないので、坂上に戻って杉野学園のある「ドレメ」通りを行きます。
 左右にドレスメーカー学院や杉野服飾大学の校舎が立ち並びます。その間にアントニン・レーモンド設計のカトリック目黒教会や、杉野学園創設者夫妻の住居だった杉野記念館、さらに杉野学園衣装博物館などが並びます。
 しばらくすると東急目黒線に沿って坂を降りますが、区境は右手奥のマンション雅叙園内です。杉野学園一帯は江戸時代は熊本藩細川家の下屋敷の一つでした。区境に近づくために目黒川の亀の甲橋という歩行者橋を渡り、目黒川沿いを右に行きます。

 すぐ左手の大きなマンション手前の道が区境で、その前で区境は目黒川を横切っています。道に入るとその先、山手通りも越えて細い道が真っ直ぐに続くのが見え、これが区境です。人為的に引いたようですが、江戸時代からの下目黒村と桐ヶ谷村の境でしょう。
 山手通りを越えて入った細道を出た三叉路を左に行き、右手にある都営住宅の中を区境は走りますが、道がないので三叉路に戻って右に行き、目黒不動に続く通りを進みます。左手には会津藩初代藩主保科正之ゆかりの蛸薬師成就院があり、奥の右側には江戸の大行楽地目黒不動があります。商店街はややさびれ気味ですが、老舗らしき商店が並びます。
 そのまま進むとやがて登り坂になり、まもなく林試の森公園東門があります。区境はこの中を通っているので入りましょう。林試の森公園は1905年にこの場所に開設された林業試験場の跡地を公園にしたものです。1989年開園で、その経緯から外来の巨樹などが多数あります。また園内に「林業研究発祥の地」との碑があります。
 最初は公園の南境が区境なのですが、公園内の中程からは区境は公園の北側へ移っていきます。かつて流れていた羅漢寺川の跡が境になっているのです。境はそのまま羅漢寺川緑道となって住宅の隙間に続きます。緩やかに登って突き当たるのが都道420号線、通称環状6.5号線です。区境はここから鋭角に折り返して右後ろの路地に入ります。
 少し歩くと左に小山台公園があり、ここから先の道は江戸時代からある品川用水跡です。これは先の三田用水と同様、玉川上水から分水した灌漑水路でした。少し先でかむろ坂通りを渡った先にお猿橋庚申堂という庚申堂がありますが、元はこの品川用水を渡る「猿橋」のほとりにありました。
 区境は庚申堂のあたりで品川用水跡を離れ、向かいの小山台高校へ向かう路地近くに入ります。同校の門前を通る道が区境です。ここは江戸時代から駅前の区境の小さな谷が走っていましたが、今は商店街の通りになっています。
 ここでまた先の都道420号に出るとすぐ左手が東急目黒線武蔵小山駅です。今日はここまでとしましょう。

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歩いて、探して、歴史を発掘する黒田涼
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