神田市場発祥の地1

「神田青果市場発祥之地」

かなり広範囲だった神田の「やっちゃ場」

★ジャンル【産業・経済】
★場所 千代田区神田須田町1−8−4
★最寄駅 東京メトロ淡路町駅、都営小川町駅

★碑文
「旧神田青果市場の由来 この市場は慶長年間に今の須田町附近、当時は八辻ヶ原と称していたこの地一帯において発祥したものである。年を追って益々盛大となり徳川幕府の御用市場として駒込、千住と並び江戸三代市場の随一であった。ためにこの市場には他市場で見られない優秀なものが豊富に入荷した。そして上総房州方面の荷は舟で龍閑町河岸へ、葛西、砂村方面のものは今の柳原稲荷河岸から水揚げされた。当時の記録によるとこの市場の若い衆達が白装束に身を固めてかけ声も勇ましく御用の制札を上に青物満載の大八車を引いて徳川幕府賄所青物御所を指してかけて行く姿は実に「いなせ」なものがあったと云う。巷間江戸の華といわれた、いわゆる神田っ子なる勇肌と有名な神田祭はこの神田市場にそのことばの源を発しているものといわれた。こうして繁栄をきわめたこの市場は江戸時代から明治、大正、昭和へと漸次その地域を拡大してこの地を中心に多町二丁目、通り新石町、連雀町、佐柄木町、雉子町、須田町にわたる一帯のものとなりその坪数は数千坪に及んだ。この間大正12年9月関東大震災にあって市場は全滅したが直ちに復興し東洋一の大市場とうたわれた。惜しい哉この由緒ある大市場も時代の変遷と共にこの地に止まるととができず、昭和3年12月1日を期して現市場である神田山元町東京都中央卸売市場神田分場へと移転した。当時数百軒に及んだ問屋組合頭取は西村吉兵衛氏であった。風雪幾百年永い発展への歴史を秘めて江戸以来の名物旧神田青果市場は地上から永遠にその姿を消した。父祖の代からこの愛する市場で生きて来たわれわれは神田市場がいつまでもなつかしい。あたかも生れ故郷のように、尽きない名残りをこの記念碑に打ち込んで旧市場の跡を偲ぶものとしたい」

★解説
 碑は地下鉄淡路町、小川町駅を降りた淡路町交差点から靖国通りを東に行き、歩道橋の先を南に入ってすぐの場所にあります。少し前まではさらに路地を入った奥にあったのですが、移転して表通りとなり探しやすくなりました。
 江戸の青物市場は魚市場と違い、自然発生的にできました。碑にも「八辻が原」「龍閑河岸」「柳原稲荷河岸」など多くの地名が出て来ます。これらの現在の場所を調べるとかなり離れた場所に分散しているのがわかります。江戸時代の市場は現代のように一か所の施設ではなく、まちなかに仲買人の店が散在してるという形でした。
 神田は駒込や千住と並ぶ江戸の代表的な青物市場ですが、河津五郎太夫かわづ ごろうだゆう)という江戸城下町成立期の草創(くさわけ)名主が開いたと伝わります。その場所は今の神田多町二丁目で、碑のある場所のやや南側の一角です。八

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