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喜作の邸宅は八芳園---23区渋沢栄一ゆかりの地

2021年の大河ドラマ「青天を衝け」は私のお気に入りの大河ドラマでした。しっかりした考証を背景に、日本の近代化に大きく貢献した渋沢栄一の生涯を描きました。2024年、渋沢は新1万円札の顔となります。ドラマの放送をなぞりながら、23区内などの渋沢栄一ゆかりの地をご紹介していきます。

23区 渋沢栄一ゆかりの地案内一覧

第39回「栄一と戦争」

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「青天を衝け」もあと3回でおしまいです。今回は渋沢栄一と戦争という重いテーマです。ドラマで嫡男の篤二が「父上は戦争のたびに病気になる」と呟いて姉の歌子から叱責されていましたが、いや実際そうなのです。ドラマでは描かれていませんでしたが、日清戦争の際、栄一は顔に皮膚がんができ、切除手術をしました。晩年の写真を見ると、右頬に大きなエクボのような凹みがありますが、それがその跡です。
 そして今回は日露戦争直前にインフルエンザから肺炎を併発、命の危険にさらされます。この2回の病いを克服した後の栄一は健康を維持し、ご存じのように91歳もの長寿を全うするわけですが、亡くなった1931年は満州事変が起こり、その後の日本の破局へとつながった年でした。
 明治以後の栄一は平和主義者であり、「理のない者が力にものを言わせようと始まるのが戦争」との考えで、理を重んじる栄一と戦争は相入れないものでした。常に日本の発展を思っていた栄一ですが、その日本が戦争という「毒」に侵されると自らの身が病んでしまいました。日清・日露は克服しましたが、最後の世界戦争の毒には勝てなかったのでしょうか。

さて今回の冒頭、栄一は渋沢喜作尾高惇忠を引き連れて徳川慶喜に面会します。そこで喜作は「栄一に引導を渡されて隠居の身です」と話します。どうも喜作はあまり商才がなかったというか、ドラマで慶喜にも言われていましたが、投機商売が好きで失敗を繰り返し、その度に栄一に救われていました。
 1883年(明治16年)には早くも引退して家督は長男に譲っていたのですが、1889年(明治22年)に完全に商売から手を引き、1903年(明治20年)には全ての公職からも引退して「白金台の邸宅」で隠居します。さてこれはどこか? ドラマ後のゆかりの地案内では、さすがNHKは「白金台」というばかりで現在の場所をひとことも言いませんでしたが(写真提供元としてテロップは出ました)、今は高級宴会場の「八芳園」となっています。

渋沢喜作邸跡(八芳園)
港区白金台1-1-1

最寄り駅:東京メトロ白金台駅

この場所は幕末には薩摩藩の下屋敷があり、江戸初期には大久保彦左衛門の屋敷があったと言われます。喜作の後邸宅は売られ、新興財閥の久原房之助が購入し、長く邸宅とします。そして戦後に八芳園となりました。現在の敷地は久原が拡張しており、喜作の邸宅は入り口左側の和館当たりです。喜作当時の建物はありません。
 また惇忠は1901年に亡くなりますが、臨終時は深川の旧渋沢邸で療養をしていました。

八芳園入り口
喜作の邸宅はこの和館あたりにあった
美しい八芳園の庭園

地 図

さて冒頭から一気に終盤に飛びますが、栄一が生死の境をさまよったのちに、慶喜はようやく自伝刊行のためになんでも話すことを承諾します。史実でもやはり栄一がしつこく要望したようで、慶喜が東京に戻ってきた頃から具体化し、栄一が費用を負担し、ドラマにも出ていた福地源一郎が実務を担当することになっていましたが、1906年(明治39年)に福地が亡くなり(ドラマでは描かれませんでした)頓挫します。
 ここで栄一は伝記制作の方針を転換し、歴史学者を編纂主任として招き、客観的な内容の後世の評価に耐えるものにすることとします。これは自身や福地のような旧幕臣の執筆では、身びいきだと批判されるとの考えからでした。
 栄一は自らの事務所に編纂所を設け、そこに慶喜を招いて語ってもらうことにします。慶喜も、刊行は自身の死後とすることを条件に、これまで沈黙してきた史実について語り始めます。さてこの渋沢事務所とは、どこにあったのでしょう?

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