「発祥記念碑」(日本大学・国学院大学発祥の地)
日大・國學院大のルーツは同じ 山田顕義創設
★ジャンル【学校】
★場所 千代田区飯田橋3−5
★最寄駅 JR、東京メトロ飯田橋駅
★碑文
「明治十五年 有栖川宮熾仁親王を総裁としてこの地に皇典講究所創設 同所を母体に山田顕義所長のもと明治二十二年 日本法律学校(現日本大学) 明治二十三年 国学院(現國學院大学)を開設す」
★解説
記念碑のタイトルがあまりにざっくりでびっくりしますが、日本大学と國學院大学という2つの大学の発祥の地の碑です。
東京農大開校地の石柱から目白通りを渡って少し九段側に歩いた左側です。
この場所には1882年(明治15年)、明治政府によって神職教育機関、皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ)が作られています。この皇典講究所には神道事務局という前身があって、さらにその前には大教院という組織がありますが、なんとこれは神官・僧侶が一緒になって宗教指導をするという機関で、明治政府の宗教政策のシッチャカメッチャカぶりがうかがえるのですが、ここではその話は本筋でないので割愛します。
皇典講究所は、日本の古典・礼式の研究を目的として設立され、有栖川宮幟仁親王が総裁になります。実際の運営は内務卿の山田顕義(やまだ あきよし)らが行いました。敷地は秋元右近という4000石の大身旗本の屋敷を購入して、建物もほぼそのまま使いました。この家は館林藩秋元家の親戚のようです。
山田は幕末維新期には軍人として活躍するのですが、渡欧後は法律の重要性に目覚め、軍より法を強く意識した人物です。司法大臣となり、彼の存命中には実現し
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