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「メイゾン鴻乃巣創業の地」

文人が集った気軽なフレンチ

★ジャンル【企業】【食】
★場所 日本橋小網町9-9
★最寄駅 東京メトロ駅人形町駅、または茅場町駅

これまでの23区発祥の地一覧

★解説文
「メイゾン鴻乃巣は、明治四十三年(一九一〇)夏、奥田駒蔵(一八八二〜一九二五、京都府出身)が日本橋小網町二丁目河岸地(鎧河岸)の鎧橋の袂において開業したバーを兼ねた西洋料理店でした。駒蔵は横浜のホテルでフランス料理の修業をし洋行の経験をもったといわれます。「西洋料理 鴻乃巣 KONOSU、FIRST CLASS BAR」の看板を掲げ、「メイゾン鴻乃巣」と名乗りました。三間間口の一階は西洋風のバー、二階は畳敷きの部屋で窓からは日本橋川が望め、魚河岸などに行き交う小舟が浮かび、水鳥が飛び交い、江戸橋あたりには江戸の面影を残す列蔵が広がっていました。夜は黒く澱んだ川面に映る人家の明りは青白く、赤く、あるいは黄味がかった灯影を映していました。その頃の若い詩人や作家や画家の間に、西洋の新しい風潮と江戸趣味が風靡していました。メイゾン鴻乃巣はそんな芸術家たちの心をとらえ、かれらの溜まり場となりました。ここに集まった人々は、木下杢太郎、高村光太郎、吉井勇、武者小路実篤、志賀直哉、里見弴、郡虎彦(萱野二十一)、永井荷風、三木露風、小山内薫、谷崎潤一郎、市川猿之助、上田敏、石井柏亭、山本鼎など、『スバル』、『白樺』、『三田文学』、『新思潮』、そして「パンの会」などに拠った人々たちでした。木下杢太郎は、メイゾン鴻乃巣の情景を詠んだ詩「該里酒 セリーシュ」を駒蔵に献呈しています。メイゾン鴻乃巣は日本近代文学史の一ページを飾る場所でした。メイゾン鴻乃巣は大正三年(一九一四)春頃までこの地で営業を続け、以後、日本橋区通一丁目食傷新道(現、日本橋一丁目)、さらに京橋区南伝馬町三丁目(現、京橋二丁目)へ移転し、大正十四年十月に閉店しました。

★解説
 日本橋川に架かる鎧橋と茅場橋の間のほぼ中間の北側道路にあります。
 このシリーズでは個別のお店の創業などはあまり取り上げていないのですが、ここには中央区教育委員会の立派な解説板があり、内容的にも取り上げる必要があると思いました。
 奥田駒蔵(おくだ こまぞう)は現在の京都府城陽市の出身で、11歳ごろから京都市内で奉公に出ていましたが、19歳で横浜で西洋料理の修行に励みます。この時に渡欧して本場の料理を学んだと言われますが詳細はよくわかりません。
 その後28歳で独立して開店したのがこの「メイゾン鴻乃巣」でした。フランス料理の店ということですが、サモワール(ロシアの給茶器)なども置いてあったと言います。当時は帝国ホテルなど高級ホテルでフランス料理などを食べることはできましたが、モーニングなどの正装でないと入ることができず、この点「メイゾン鴻乃巣」では普通の格好で入ることができ、気楽に洋食を楽しめました。当時の店のチラシにも「簡易食堂」などの文字が躍ります。
 解説板には、教育委員会の説明文らしからぬ詩的な表現で店からの眺めを描いていますが、こうした点も好まれたのか、多くの文人、文化人たちの溜まり場となりました。
 解説文にもある有名な「パンの会」の会合も開かれたようですが、この

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