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「みんなのこと」を考えた栄一---23区渋沢栄一ゆかりの地

2021年の大河ドラマ「青天を衝け」は私のお気に入りの大河ドラマでした。しっかりした考証を背景に、日本の近代化に大きく貢献した渋沢栄一の生涯を描きました。2024年、渋沢は新1万円札の顔となります。ドラマの放送をなぞりながら、23区内などの渋沢栄一ゆかりの地をご紹介していきます。

23区 渋沢栄一ゆかりの地案内一覧

第33回「論語と算盤」

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 いやあ今回も激動回でした。西郷隆盛が死に、大久保利通が死に、三野村利左衛門も死に。紹介されませんでしたが木戸孝允もこの間亡くなっています。そして紹介場所もてんこ盛りですのでご期待ください。

 栄一の周辺も、特に1874年(明治7年)は多くの出来事があり、何を盛り込むか盛り込まないか、プロデューサーも脚本家も悩んだでしょう。
 冒頭、小野組が破綻しました。明治政府が官金を預けるにあたって、3分の一としていた担保を急に同額にまで引き上げたのは事実です。しかしドラマで描かれたように三菱の岩崎弥太郎が、「政府の言うことを聞かない商人にお灸を」などと大隈重信を唆した、というのはどうだったのでしょう?
 小野組にも責任はあります。旧式のどんぶり勘定で、短期に預かったはずの金を投資に回したりしています。政府からの預かり金が続くはず、との思いで自転車操業を続けていました。困ったのは130万円もの金を小野組に預けていた第一国立銀行です。これが回収できないとできたばかりの銀行も破産です。
 窮地に陥った栄一を救ったのは小野組の番頭、古河市兵衛でした。ドラマでは一時の事のように描いていますが、実際は小野組幹部と話し合った翌日に料亭で二人で会っています。この時にドラマで描かれたような「信用貸しでしたが、全て担保に差し出します」との会話がなされ、古河は自己管理の資産に全て抵当をつけさせたのです。
 しかしこれ、現代じゃインサイダー取引というか、合法行為じゃないように思いますがどうなんでしょう(笑)。政府に差し押さえられる前に、井上らの情報で先に差し押さえちゃったわけですからねえ。
 今回は紹介場所が多いので、特別に栄一に直接の関係のない場所を公開します。

古河グループ発祥の地
中央区日本橋室町2-3

最寄り駅:東京メトロ三越前駅

 古河は小野組の破綻後に独立して事業を始め、1875年(明治8年)に新潟県の草倉鉱山の採掘権を得て、近代的手法で生産を上げました。渋沢はこの再出発に際し大隈に書簡を送るなど便宜を図っています。そしていよいよ鉱山業を拡大すべく、1877年(明治10年)に住居と本店を置いたのがこの場所です。ここに建つ「コレド室町2」の正式名称は「室町古河三井ビルディング」で、歩道脇の一角には古河市兵衛の胸像があります。市兵衛は草倉と同じ手法で足尾銅山の再開発を進め、古河グループの基礎を築きます。

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地 図

 さて危機を乗り切った栄一は、小野組の脱落で第一国立銀行を我が物にしようとする三野村利左衛門と対決します。と言っても元々三井小野銀行だったものを渋沢の横槍で取られてしまっていたわけで、三井からすると取られたものを取り返す感覚でしょうか。まあこのドラマは栄一が主役なので、こちらを正義に描くのは仕方ないですが。
 これに勝った栄一は第一国立銀行の頭取になります。これもお芝居ですから、一場で大隈から「頭取とする」と言われたようになっていましたが、実際は三井の乗っ取り画策が1874年(明治7年)12月で、頭取就任は翌1875年(明治8年)8月です。
 諦めた三井は自分で銀行を創業することとし、1876年(明治9年)7月に三井銀行が開業します。栄一はこれには賛意を示しており、先の「乗っ取り」劇も、ドラマで描かれたほど重大な対立であったかは疑問です。三井と第一国立銀行及び栄一は、その後も三井と深く関わって動いていきます。
 ドラマでも銀行と同時に創業したばかりの三井物産の社長、益田孝が登場して一緒に牛鍋を囲んでいました。
 さてこの牛鍋を囲んでいる栄一の家、どこだったんでしょうねえ。え?また引っ越したのかって? そうなんですよー。

これより有料です。以下には渋沢の転居先のほか、養育院などについての記事全文、写真、地図、関連情報リンクなどがあります。ご購入いただく場合、この記事だけで100円お支払いいただくより、マガジン「『青天を衝け』23区渋沢栄一ゆかりの地案内」全体を500円でお買い上げいただく方がお得かと思います。最終的に数十本の記事をご覧になることができます。よろしくお願いします。

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