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【手のひらの話】「見てる人は見てる」
朝からバタバタしていた。
いろんなことが自分の思いもしない方向に転がっていく。
こんなはずじゃない。
今日は定時に上がれるはずだったのに、後輩のミスをかぶり残業して1人データ入力をしている。
こんなはずじゃなかったのにな…。
誰もいないフロア。当の後輩は自分の仕事が済むとドライに帰って行った。
たぶん軽く見られているのだろう。独身で、お局の私は。
「はぁ…」ため息の1つもつきたくなる。
そういやお昼も食べ損なった。
ミスに対応している内に時間切れ。泣く泣く買い置きしてあった飲むゼリーを流し込んだのだ。
「お腹空いたな…」
そんな時。誰かが入ってきた。
「お疲れ様です〜。まだ残ってる?」
同僚だ。
手に提げたビニール袋から湯気が立っている。
「良かったいて。あ、これ差し入れね!」
湯気の正体はカツ丼だった。しかも大盛り。「ちょっと…これは女子向けの差し入れじゃないんじゃないの?」
真顔で聞いた。
いくらなんでも扱いが雑すぎる。
「まあ聞けよ」
憤る私をなだめるように彼は言った。
「ここは普段テイクアウトなんてしてない。今夜俺が頼み込んで作ってもらった」
だから?私の眉根に皺が寄る。
「俺が1番美味いと思ってる店のカツ丼だ。出来立てだ。安井さんに食べて欲しくて持ってきた」
真剣な表情に少しだけ心が動いた。
「私に?」
彼は黙ってうなずく。額に汗が浮いている。きっとこれを走って持ってきたんだ。私のために。
「昼からマトモに食べてないだろう。おまけに人の分まで残業して。守衛のおじちゃんも心配してたぞ」
従業員通用口には守衛のおじさんがいる。私は顔を合わせるたびに挨拶をしていた。ありふれたものだったけど。
それに私がお昼を食べ損なって飲むゼリーで済ませたのを何故知っているの?
「それにしても…空っぽの胃にカツ丼って」「安井さん好きだろうカツ丼」
たしかに大好物だ。
蓋の隙間から漏れてくる匂いがたまらない。ほかほかの湯気が出来立てを物語る。
落ち込んでも凹んでも、悲しいかな空腹には逆らえない。
「ほら」
彼は割り箸を差し出した。ちゃんと手元がこちらを向いている。
持っていた書類の束を脇のデスクに置いて、私は割り箸を受け取った。
パキリ、と2つに割る。
「はい」
次はカツ丼。テイクアウト用ではない塗箱だ。黒くてツヤツヤしている。箱越しの温度を手のひらで感じる。熱々だ。
「召し上がれ」
蓋を開けて箸をつけた。たまらない。湯気が顔にかかって汗ばんでくる。
卵でとじられたカツを三つ葉ごと一切れ。頬張る。
「ホント美味そうに食べるなぁ」
彼はそう言いながらペットボトルを出して飲んだ。
「毎日お疲れ様。見てる人はちゃんと見てるから」
がっついている私に彼は言った。
「頑張ってる安井さん、カツ丼がっつく安井さん」
少し恥ずかしくなって食べるスピードを加減した頃。
「好きなんだよね、俺」
箸を落としそうになる。
私を?
動揺を悟られないように私はご飯を口に入れた。出汁が染み込んだご飯。これもたまらない。
カツ丼は残り3分の1だ。
食べ終えてお礼を言って…何て答えればいいのかな。
熱いものは熱いうちに。
まずは、これを食べてから。