ロバの議論とロバの耳
【SNSと詠み人知らず】
先日、ネット上で面白い物語を見かけました。
イソップ寓話風のお話なんですが、詠み人知らずで出典を明記できないのがつらいところ。「誰かのノートより」って感じで、SNS上で作者不詳のまま拡散されていたんです。僕のFacebookのタイムラインにはJingle Bansueloというアカウントの記事として流れてきたんですが……それがどういう人なのかは不明。ていうか、SNSの性質上、その人自身が書いたものなのかも分からないし、個人アカウントなのかも分かりません。プロフィールを開いても「カテゴリ:政治家」なんて表示されるだけで詳細は出てこないんだけど、「フォロワー:1.4万人」とあるから結構な有名人なのかも。
その記事の文章も、英語から日本語に自動翻訳されたものらしく、訳がひどくて一読するだけでは意味が分からないほどでした。でも物語としてはシンプルだし、寓話として面白いので、ここで文章を整えたものを紹介してみたいと思います。
翻訳ではありません。僕はこの何年か、口承文芸学者の小澤俊夫先生の主宰する「昔ばなし大学」という市民大学で学んでおりまして、そこで教わった再話法をこの物語で試してみようと思います。今回、SNSでは読みづらかったそのお話を、僕なりに再話してみたってわけです。
【寓話・「ロバとの議論」】
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昔むかし、あるところに、トラとロバが住んでいた。
ある日、ふたりの間で言い争いが起きた。ロバがこう言い出したせいだ。
「芝生ってのは、紺色の草だよ!」
それを聞いたトラは驚いた。なにしろ芝生の色は紺なんかではない。
「違うよ。芝生は緑色じゃないか」
トラは何度もそう教えたが、ロバは聞こうとしない。「紺色だったら紺色だ!」と言い張るものだから、とうとう喧嘩になってしまった。
そこでふたりは、この議論を賢い王さまに裁いてもらうことにした。百獣の王、ライオンに訴え出たのだ。
ロバはライオンに向かって大声を上げた。
「王さま、芝生って紺色ですよねー?」
ライオンは答えた。
「うむ。芝生は紺色だな」
ロバは急いで言い足した。
「なのにトラの奴は、紺色じゃないって言って逆らうんです。まったくムカつく奴です。罰を与えちゃってください!」
そこでライオンは判決を下した。
「ではトラは、罰として――芝生の色について語ってはならぬこととする」
その判決に、ロバは大喜びで飛び跳ねた。ご満悦で声を上げながら行ってしまった。
「ほーら見ろ、芝生は紺色だーい! 芝生は紺色だーい!」
トラは王さまの判決に従うしかなかった。それでも質問せずにはいられなかった。
「王さま、どうして私が罰を受けなくてはならないのでしょうか? 誰が何と言おうと、芝生は緑色ですのに」
ライオンは答えた。
「うむ。たしかに芝生は緑色だな」
トラは尋ねた。
「なのに、どうして私を罰したのです?」
ライオンは答えた。
「これはな、芝生の色が緑か紺かという話ではないのだ。お前のような賢く勇ましい動物がロバなどと議論することが時間の無駄、そんな議論に私まで巻き込んでわずらわせるな、ということだよ」
愚か者と議論するのは、時間の無駄の最たるものだ。愚か者は事実や真実を求めてはいない。ただ自分の思い込みを押し付けたいだけだ。そんな奴との言い争いで時間を無駄にしても仕方ない。いくら説得しようと証拠を示そうと理解できない者はいるし、そういう者たちはたとえ間違っていても自分を正当化したがるものだ。
無知なる者が騒ぐとき、知恵ある者は沈黙する。議論より平穏の方に価値があるのだ。
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【イソップについて】
「ロバとの議論」、いかがでしたか?
こういう物語ってのは人によって好みが分かれるところです。エスプリがきいてて面白いと感じる人もいれば、説教くささが鼻について嫌だって人もいるかもしれません。
僕個人の感想を言わせてもらうなら、いろいろ納得できる見事な寓話だなーと思っています。学ぶところが多い話なので頭の片隅に記憶しとくべきのような気もします。背景にあるのはギリシャの議論文化のようにも取れるし、漢文とかに出てくる賢者による統治のたとえ話みたいで東洋思想のようでもあるし。
前述のように、ネット記事ではこの物語の出典は書いてなかったんですが、いかにもイソップ風の物語です。本当にイソップの物語として伝わっている一編かもしれないし、誰かがそのスタイルを真似て創作したものかもしれない。なにしろイソップというのは古代ギリシャの人物で、生きていたのは紀元前5~6世紀という大昔だと言われてます。実在したのかどうかって論争まであるような、ほどんど謎の人物なんです。
そのイソップが語っていた話を中心にまとめたののが「イソップ物語」。「イソップが書いた」じゃありません。「語っていた」んですね。なにしろイソップ直筆の記録というのは残ってなくて、記録されているのはほぼ同時代や後世の人による、イソップは語りの名人だったという記録だけなんだそうです。語ったお話の中にはオリジナル作品もあったかもしれませんが、イソップより前の時代から記録されているような物語も含まれています。それがひとくくりに「イソップ物語」とされてるんですから、「イソップが書いた」とはいえませんよね。
なにしろ紀元前5~6世紀のこと、物語の主な伝達手段は口承、口伝えです。その語りの名人として名高かったということは、現代でいったら落語家や講釈師、あるいはトーク上手の芸能人、みたいな存在だったのかもしれません。その人生も物語の形になっていて、イソップはどういう人でどういうことを行った、という評伝、いわあ「イソップについての物語」も「イソップ物語」に含まれています。
そして「イソップ物語」には、「イソップ風の物語」というのまで含まれます。明らかに他の人による創作とかギリシャ以外で伝えられていた話とかも、口承文学として語りつがれて長るうちに「イソップ物語」として伝えられてるんです。どれが本物のイソップ物語であり、どれが新たな創作であるというのは、今では区別が難しくなっている面もあるようです。だから「ロバとの議論」だって、まとめ方によってはイソップ物語として後世に伝わっていきそうな気もします。
【寓話と寓意】
ところで、同じお話でも、人によって本によって「イソップ物語」と呼んだり、「イソップ寓話」と呼んだりします。これはどういうことなんでしょう。
簡単にいっちゃえば、「寓話」というのは「たとえ話」のこと。物語の中の一つのジャンルです。何かしらのお話を聞いたり読んだりして、うまいことたとえてるなーとか、この話はあのことに当てはまるなーなどと思ったら、「寓話」と呼ぶこともあるわけです。お話としてのすじがあれば「物語」、たとえ話としてまとまってれば「寓話」、だから両者が重なる例もあるってことですね。
同じ寿司でも、和食と呼んだり魚料理と呼んだりするのと似てるかも……って、これも一種のたとえ話。これを「物語」と呼ぶにはもうちょっとストーリー展開もほしいとこだけど、それはまた別の話。
寓話としてのイソップ物語には、お決まりのスタイルがあります。人や動物を中心にした分かりやくて短い筋立て、ちょっとしたひねりがあって、何かしらの教訓でもってしめくくられる――なんてのが、一般的なイソップ寓話のスタイルのようですね。「ロバとの議論」ってお話もそれを踏襲しています。
そして寓話であるからには、「何のたとえなのか」ってのを解釈できます。人によって解釈が違うこともあるのが面白いところ。いや、一人でいろんな角度から眺めるのだって面白いものです。
大抵の人は一読して、トラに自分を重ね、ロバを分からずやの誰かに見立て、ライオンの言葉を賢い誰かからのアドバイスのように考えるんじゃないでしょうか? 逆に、ロバに自分を重ねることもできます。ふと自分を省みて、つまらない思い込みで頑固に言い張ってしまった、なんていう経験がある人もいるはずです。
誰かを言い負かしたように思っていても、案外相手の方が賢くて、ただ沈黙してくれていただけかもしれない、なんて考えも涌いてきます。あるいはライオンのふるまいを参考にして諍いを収める、なんてことにも応用できるかもしれません。子どもの喧嘩の間に入る親御さんや先生だったら、そういう機会も多そうですね。
そして、物語に出てくるキャラクターにはそれぞれが持っている寓意というのもあります。象徴性といってもいいのかな。ライオンを「百獣の王」などというように、誰もが何となく抱いているイメージですね。仮にこのお話が、「カバとクジラの議論をプランクトンが裁く」なんて設定だったら、ちょっと説得力に欠けるし、思い浮かべにくいですよね。ミスマッチの配役を楽しむという考え方もあるでしょうが、やはり王さま役にはライオンをキャスティングするのが無難なところでしょう。
同様に、「ロバは間抜け」とか「トラは勇ましい」なんてイメージも広く浸透しています。これは動物固有の性質とか、他と比べた場合の特徴とかにちなんで、いろんな文化や地域の中で共有されているイメージなんですね。僕も昔ばなし大学で古今東西の物語に触れているうちに、お馴染みの動物が登場しただけで何となく役柄が想像つくようになってきました。
【再話と昔ばなし大学】
昔ばなし大学の話ついでに、再話についても言及しておきます。
昔話が収録された本を見ると、著者名のところに「作・○○」と記載されていることもあれば、「再話・○○」となっていることもあります。最近の本では「再話」と記載されるのが多いようですね。これは「新しく創作したわけじゃなく、もともとあるお話をあらためて書いたものだよ」みたいな意味ですから、「作」よりは「再話」とある方が正直者って気もします。仮に僕がお馴染みの桃太郎の本を出したとして、「作・竹内真」なんて書いてたら、「おめーが作ったわけじゃねーだろ!」とツッコまれちゃいますもんね。
それから再話の場合、原話と全く同じとは限らない、ってこともあるようです。「ロバとの議論」について、僕は最初に「翻訳ではなく再話」と書きましたが、それは自分の創作じゃないってことと、原文の内容を意図的に変えたところがあるってこと意味しています。
もちろん大すじは原文通りですし、翻訳であっても文意を伝えるために文章内容をいじることはありますが、再話の場合はもっと大胆に変えることがあります。文章をごそっと削るとか、本筋からそれた余計な要素を取り除くことなどもあるんです。
「ロバとの議論」でいえば、原文ではトラとロバが「芝生の色はグリーンかブルーか」で言い争います。ですが僕は「緑色か紺色か」と変えました。なにしろ日本では、「芝生は青い」って言いますから、このお話のロバが間違ってないことになっちゃって、主旨が変わってきちゃうんですよね。古い日本語では緑色もアオと表現してたんだそうで、今でも「青々とした芝生」とか「隣の芝生は青い」といった言い回しが残っています。
それから、原文ではライオンの王さまによる判決に、刑期もついていました。でも沈黙の期間が何年だろうと話の大すじに関係ないですし、「じゃあ刑期を過ぎたら議論を再開するのか」みたいな含みが残っちゃうので、刑期にまつわる要素はカットしました。こういうのも、再話ではよくありますが翻訳であまり派手にやると眉をひそめられそうです。
まあ、紺色と表現したり刑期をカットしたりというのは僕個人の思い付きですが――昔ばなし大学では、そうやって個人が行った再話について、受講生同士や小澤先生を交えて検討していきます。それぞれのやり方を持ち寄って議論し合い、よりよい再話を残しながら各自の力を高めていこう、というカリキュラムになっているんです。
たとえば図書館などで昔話の本を手にとると、著者(再話者)として名のある児童文学者の名前が載っています。ところが、創作児童文学の書き手が昔話を再話すると、時して読みづらいものができあがったり、原話と大きく違ったりしていることがあります。本として目で読むにはよくても、読み聞かせなどで耳で聞いて分かりにくい、なんて例も多いです。――文学者としての技術を持っている人ほど、描写を増やしたり様々な要素を膨らましたりして、余計な情報が多すぎて読みづらい、聞きづらいって結果になったりするんですね。
昔ばなし大学に入学すると、入門コースや基礎コースという課程から始まるんですが、その序盤で小澤俊夫先生が、よくない再話例についての「批判的検討」という講義をしてくれます。木下順二とか松谷みよ子とか、高名な文学者たちによる再話作品、大手出版社から刊行されて世に多く人待ってる本が、けちょんけちょんに批判されていく様はなかなかに痛快でありました。
そんな例を踏まえつつ、人類の文化財である昔話を先人から受け継ぎ、未来に伝えていくため、正しい方法で再話していこうという目標が掲げられます。そのためにはまずは世界じゅうの昔話が持っている共通の性質や語法を理解しようということで、昔話の文芸理論を学んでいくんです。
そして最初のコースを一通り終えると、再話コースという課程に進みます。ここで数人のグループを作り、議論しながら再話作品を仕上げていきます。何人もが耳で聞いて互いにチェックし合うことで形を整え、分かりやすい文章に直していくわけですね。その後も再話研究会という過程があり、さらに先には指導者としての資格もあったりして、これまでに延べ一万人以上の人たちが学んできたそうです。
小澤先生や先輩方がたくさんの昔話を再話され、書籍や録音の形にしているので、ネット検索するといろんな資料が見つかると思います。もちろん口承の形で、全国各地で昔話を語るイベントも開かれているので、そういう場に足を運んでみるのもおすすめです。
【イソップと陰謀論】
……と、イソップの話から再話や昔ばなし大学について書きましたが、昔ばなし大学でイソップについて教わる、というわけではありません。イソップについて調べたのは僕の個人的な興味からです。
昔ばなし大学で学ぶ昔話研究は、十九世紀のドイツの文学者、グリム兄弟に端を発します。そして二十世紀のスイスの文芸学者、マックス・リュティがヨーロッパ各地の昔話を研究して画期的な文芸理論を打ち出し、それを受けて世界各地の学者が全世界的な理論にまとめたんだとか。小澤俊夫先生は日本の昔話の研究を進めて世界に発表し、国際的な学会の副会長まで務められています。
そういう経緯があるため、昔ばなし大学で学んだ昔話は、ヨーロッパで十九世紀まで語り継がれてきたものや、日本で現代まで伝わってきた話が大半でした。もちろんイソップは有名だし、その物語を語る受講生もいましたけども。
なにしろイソップの物語は、前述のように紀元前のものがたくさん残っています。もちろん紀元前の話であっても現代の昔話理論があてはまっちゃうのがすごいとこですが、大昔の物語だけあって素朴な物語が多いようです。グリム童話とイソップ物語を比べると、だいたいイソップの方が短いようですし。
神さまが人間や動物の寿命を定める、「寿命」というお話はグリムにもイソップにも入っているんですが、比べてみると、グリムの方が細かい工夫をこらされ、整った形になっているのが分かります。きっと二千年以上も伝えられる間にいろんな人が改良を加えてきたんでしょうね。
そして現代、二十一世紀になって、ネットで流れていたのがイソップ風の「ロバとの議論」です。どうして今の時代に、二千数百年前の寓話のスタイルをとった物語が拡散されているのか。――ここからは、僕の個人的推理です。
日常生活での言い合いにとどまらず、ネットの世界を見回せば、不毛な議論って尽きませんよね。コロナ禍ではマスク警察vs反マスクの衝突なんてこともありましたし、自論をこじらせて暴力的な行動に出たあげくに逮捕されてた人までいました。個人攻撃や誹謗中傷を繰り返して裁判沙汰になり、損害賠償としてえらい金額を提示されて焦ってる人なんかも見かけます。
アメリカにいたっては、陰謀論を信じた人々が連邦議事堂を襲撃する、なんて事件まで起きてます。どうも、インターネットの普及で人類の知的レベルが向上したかといえばそうでもなくて、むしろ怪しげな陰謀論みたいなものがはびこりやすくなり、しょうもない諍いの種が増えているようにさえ見えます。
ここで一つ一つの陰謀論をとりあげて、どれが間違ってるとか僕こそが正しい、などと主張する気はありません。陰謀論とそれへの反論、どっちかが正しいんでしょうけど――一つ確かなのは、「互いに自分こそが正しいと思ってる」ってことです。それでお互いに理屈が通じる同士なら議論しあって建設的な結論に達することもあるかもしれませんが、そういう例ってあんまり見かけないようですね。
いや、陰謀論に限った話じゃないのかもしれません。ネット上で何か主張してる人の中には、「自分こそが正義」と信じて疑わない人が結構います。それに反論する側だって正義のつもりだったりするし、人間誰しも自己正当化欲求みたいのがありますから、互いに一歩も引かないなんてことも。しまいに「思想信条が違う相手を罵りたいだけ」なんて状態になっちゃってる人たち、結構いますよね。
つまり、互いにいくら高尚な論理だと思っていようと正義のために闘ってるつもりだろうと、ネット上の議論って、ロバとトラの議論よりもひどいことになりがちなんです。そういう時ライオンの王さまの教えを頭に置いとけば、少しは不毛な罵り合いを減らせるかもしれません。――なにしろ、先にあげたイソップの評伝、「イソップについての物語」では、数々の寓話を語って有名になったイソップが、議論がうますぎるせいで恨みを買って悲劇的な最期を迎えてるくらいですから、あまり議論に入れ込むのもよくないのかもしれません。
僕はツッコミ気質なので、論理性を欠いてる主張についてはついつい反論したくなっちゃうんですが、そこで不毛な議論は避けて平穏を選ぶのも知恵の一つ、ってことですよね。――「ロバとの議論」という物語を書いた人、あるいはそれを紹介した人の頭にあったのも、そういうことかなーと思います。
かといって、陰謀論だの明らかな間違いだのを全て放っておくのもストレスですよね。「物言わぬは腹ふくるるわざなり」なんてことわざもあるくらいです。どこかで言いたいことは言っておいた方がいいのかもしれません。――そこで思い出すのは、「王さまの耳はロバの耳」ってお話です。
【ギリシャ神話・「王さまの耳はロバの耳」】
「王さまの耳はロバの耳」、タイトルだけは有名ですが、お話の全容を知っている人って意外と少ないんじゃないでしょうか。かくいう僕も、この文章を書き始めるまできちんと読んだことはなかったし、もともとはギリシャ神話だということさえ知りませんでした。
でも慣用句というか、「物言わぬは腹ふくるる」の同義語みたいに使われる機会は多い言葉ですよね。いい機会なので、「王さまのミミはロバの耳」も僕なりに再話してみることにしました。
この話は様々な本に載っているので資料探しも出典明記も簡単です。今回、講談社の『少年少女世界名作文学全集』の第1巻「ギリシャ神話/エジプト神話/北欧神話/イソップ物語」という本を使いました。昭和41年発行という古い本ですが、各地の神話とイソップ物語を一緒にまとめているところが気に入りました。
なにしろイソップ物語の中には神さまが登場する話もあるし、イソップもギリシャ神話もギリシャの古典文学という点では一緒です。ギリシャ神話の中の一編でも、教訓がくっついてイソップ物語風に紹介されている例も見かけます。今回調べてみたところで、ネット上では「王さまのミミはロバの耳」を、イソップ物語として紹介しているサイトまでありました。
『少年少女世界名作文学全集』では、「王さまの耳は、ろばの耳 」というタイトルで、ギリシャ神話の一編として収録されていました。その物語を参考に、短めにまとめてみたのが以下の物語です。
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昔むかし、ギリシャにミダース王という王さまがいた。
野山で遊ぶのが好きで、パーンという神さまと仲良くなった。頭に二本の角を生やした、羊と羊飼いの神さまだ。
パーンは笛が得意で、いつも芦の笛を持ち歩いていた。あるとき、竪琴の得意な太陽の神、アポロンと腕比べをすることになった。審判は山の神、トモーロスが務めることとなった。他にも神々や人々が立ち会うことになり、ミダース王もその中にいた。
パーンが笛を、アポロンが竪琴を演奏した。ふたりの演奏を聞いたトモーロスは、「アポロンの勝ちだ」と告げた。聞きほれていた神々や人々は大きく拍手した。
ところが、ミダース王だけは手を叩かなかった。アポロンの竪琴より、パーンの笛の方がずっと気に入ったのだ。
「アポロンはたしかに上手いが、パーンの方が心がこもっている。この判定はおかしい!」
ずけずけとした物言いに、誰もが驚いた。アポロンは怒りだした。
「お前の耳は人より劣る。こうしてくれる!」
アポロンはミダース王の両耳を引っ張った。耳はみるみるうちに伸び、毛が生えてロバの耳そっくりになってしまった。
「困ったことになった」
ミダース王はそれ以来、帽子を深くかぶるようになった。ロバの耳が恥ずかしくてたまらなかったのだ。
それでも散髪する時には帽子を脱ぐ。ある日、その姿を見た床屋が笑いそうになった。ミダース王は床屋を睨みつけた。
「誰にも言ってはならんぞ。もし喋ったらお前の首はないぞ」
床屋は承知するしかなかった。しかし、誰にも言うなと止められると、なおさら言いたくなるものだ。
我慢できなくなると、床屋は人けのない川原へ向かった。そこで砂地に大きな穴を掘り、穴の中に向かって声を上げた。
「王さまの耳は、ロバの耳!」
それからというもの、喋りたくてたまらなくなると穴に向かって叫ぶようになった。
床屋に口止めしたミダース王は安心して暮らしていた。ところがある日、風に乗って「王さまの耳は、ロバの耳」という声が聞こえてきた。
慌てた王さまは、家来を連れて声の主を探しに出た。声はどうやら、川原の方から聞こえてくるようだった。
しかし川原まで来ても誰の姿も見えない。よく見ると、声は川原に生えた芦から聞こえてきた。
それは、床屋の掘った穴の上に生えた芦だった。風が吹くたび、その芦が声を上げているのだった。
怒った王さまは、家来に命じて川原の芦をみんな燃やしてしまった。けれども今度は、燃やした後の砂から声がした。
「王さまの耳は、ロバの耳……」
いくら王さまでも、砂まで燃やすことはできない。ミダース王は、がっかりして帰っていった。
こうなってしまっては、みんなに耳のことを知られてしまうだろう。これからはロバの耳を隠さずに生きていくしかないようだった。
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このお話からも、寓話としていろんな教訓を汲み取れそうです。前述した「物言わぬは腹ふくるる」の他に「人の口に戸は立てられぬ」ってことわざも当てはまりそうだし、「怒りっぽい人に逆らうもんじゃない」なんて受け止めたってよさそうです。
そしてもちろん、SNSとかネット上の言説にあてはめて教訓を得ることもできると思うんです。下手に議論するのは避けて、ネットのどこかに自分なりの穴を掘り、自分なりの考えを書き込んでおく……くらいの方が、無難なのかもしれません。
はい。そんなわけで。「ロバとの議論」と「王さまの耳はロバの耳」っていう二つのお話を並べて、僕はこの文章を書こうと思ったわけです。
これからnoteを使って、物語にまつわるあれこれを書いていこうかなと思ってます。
お気に召したらぜひよろしく。 励みになります……というか、お一人でもおられるうちは続けようと思ってます。