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自由の中から生まれる自発的な思いやりについて
「子どもがしたいことをしていく自由」「話し合いによる自治」、そういった環境こそが「学校」なのではないかと、大学生が思いつくまでのお話の続き…
そんなこんなでキャンプ2日目にしてすっかり班の子どもたちも打ち解け、私も一員として楽しく過ごして、あっという間に最終日の夜を迎えた。なぜか、ここでも研修で練習したキャンプファイヤーでなく、夏祭りをする、各班で出店をだしてくださいとのこと。人生、つくづき練習通りにはいかないものだ…。出店ってなにしたらいいんだろう?夏祭りなんて、小学生以来行ったことがない。一瞬焦ったものの、飯盒炊飯同様に何をするかは子どもたちに任せて、子どもたちが決めたものを、試行錯誤しつつもやっていく。それがわいわいと楽しいんだからと心をなんとか落ち着かせた。
子どもたちのほうは最初は何しようか戸惑っていたが、すぐにああでもない、こうでもないと計画をたてること自体が盛り上がっていった。結果、男の子は人力車屋さん、女の子はかわいいものを売るお店をすることにまとまっていった。
しかし、そうなると今度は私のほうが内心また焦りだした。「自由に店を出すって言っても、班ごとにだから…。班で協力して、一つの店を出すってことじゃないの?2つに分かれていいの?」と。「キャンプ終了後の振り返りのミーティングで、先輩や職員さんになんか言われたら嫌だなぁ。『協力し合ってないじゃん』とか、突っ込まれないかなぁ」と…。それまでは教育的なことを気にしていなかったけど、批判されるのは嫌だと、他からどう思われるかが気になりだした。「班で一つの店を出そうよ」って声がけしたほうがいいのかと、めちゃくちゃ迷っていた。
「子どもが自由にやることを手伝うってのが、キャンプカウンセラー。二つしたいって、子どもが言ってるんだからそれでいいんじゃやないの。いまさら『一つの店をしたほうがいい』って水差すのも、子どもたちのやる気が下がっちゃうんじゃない?突っ込まれたら、『一つの出し物するって知らなかったし…。子どもたちが自分たちでやろうとしている物を大事にしただけなんです』って、そう言おう」と、結局子どもたちには何も言わなかった。ちょっとビビりながら、適当な言い訳だけ心の中で用意することにした。
そんなことはつゆ知らず、子どもたちは、男女でそれぞれの店を楽しそうに準備しだした。といっても、別々で交流がないとはならなかった。女の子は男の子に「人力車、こういう工夫したらいいんじゃない?」と声をかけたり、反対に男の子たちは人力車でいろんなところに行ったときに、「これお店で売るといいよ」となにかしら持ってきてくれたりして、一つの班で協力し合っていた。
一つのことを一緒にすることが協力し合うことじゃないかと、勝手に思っていた自分が恥ずかしかった。仲良くなって、楽しい時間をともに過ごしたいと思っていると、自発的に自分も楽しく、相手も楽しくを意識するんだと伝わってきた。学校なら先にはっきり「班で協力し合って~すること」って言われて、そうしなきゃいけない。それとは違うスタート。それぞれが自由に好きなことをするという出発点。そこから、自然にともに過ごす仲間を思いやって、協力し合うことが生まれる。そして、協力し合うことは楽しいこと、どんどん関係が深まり、広がることだと感じた。
そして、班で二つ店を出していることは、誰からも何も言われなかった。本当に子どもたちに何も言わなくてよかった!!そして、自分が勝手にいらない学校的な常識を持っていることを感じて、ここではそういうことが子どもたちの邪魔になってしまうこともわかった。学校とは別の価値観の場だった。
ついに帰る日になった。早く片付いたほうの子が、まだテントをたたんでいる子のほうを手伝いに来てくれた。みんな協力し合って、てきぱき片づけた。この班のメンツで遊ぶのは今日が最後。一期一会の出会いを大切に、残り時間を一緒に遊べるように、さっさとテント撤収は終わらせていた。私がなにか言わなくても、仲良くなったみんなは「早くみんなで遊びたい!!」との気持ちを共有していて、そこからお互い助け合って、物事を進めていた。
なんだか自分の高校時代が恥ずかしくなった。生徒会の人たちが「みんなしっかり考えて。決まらないと、話が終わらない」と困って、呼びかけていても、私には他人事で隣の子と関係ないことをおしゃべりしていた。自分たちのコミュニティという意識が希薄だった。生徒会の人たちにはすごく申し訳なかったと今更ながら反省した。でも、どうして学校では自分たちで物事を進めているっていうことを学ばなかったんだろう。当事者だっていう意識を持てなかったんだろう。
一つには、「は自分たちで決めなさい」って学校が決めたことだけ、自分たちに回ってくるからだと思った。自分たちがもっと決めたい、変えたいことは口を出せない。「髪をくくるゴムは地味な色でないといけない」という校則一つにしても、地味ってのを受け入れたとしても、「こげ茶だっていいじゃん!!」ってことさえ、届ける道も、変える方法も用意してなかった。そして、なせこげ茶は地味な色に入らないのかを説明できる先生もいない。そいうった意味が感じられない、守らないといけない校則がいっぱいあって、真剣に考えると疲れてしまう。批判や質問すると反抗的ということで、授業態度が悪いと成績を下げてくるような先生もいた。自分たちで自分たちの場について考えないほうが得という面もあった。そんな中で、これは生徒で決めなさいと回ってきても、それって自分たちで決めたいことでもなんでもない…だから、無関心で他人事で、興味がない。意見をまとめないといけない役員の子たちだけが苦労していた。
ここから先のデモクラティックスクールの話は有料に設定しました。
実は、まっくろくろすけでは、倉庫をリフォームしようとしています。
築50年、農業倉庫として建てられているので、子どもたちが活動スペースとして安全に使うためには大きな改装が必要です。
その費用のカンパを兼ねて有料で読んでいただけると、とても助かります。よろしくお願いします。
デモクラティックスクールの話になるけど、本当に小さいことから決めたい人で決めれる。だれでも話し合いに参加できる。
「ゴムの色は地味なほうがいい。派手な色だと、学校の印象が悪くなるし、トラブルに巻き込まれやすいと思う。黒にしましょう」と誰かが決めたくなったら、そのことに意見のある人は話し合いに出れて、みな対等に決められる。「地味な色に決めるのはいいけど、くろも紺もこげ茶もいいと思う」って言える。「そもそも、ゴムなんて地味じゃなくてもいいんじゃない?人に迷惑かけることでもないから、自由でいいと思う」「からまれないし、印象も悪くならないよ。かえって、自由なのいいなって評判よくなるんじゃない?」って、違う意見や反論を言っても、反抗的とは思われない。みんな対等だから、反抗でなく、意見の相違。成績表もないから、下げられる心配もない。大人は子どもを評価するとかいった権限を与えられていない。一緒に考えてくれる大人としての経験を持った仲間なだけ。
あるとき、ひとりの大学の先生が見学にきた。その先生が支援している居場所では「子どもたちがあまり意見を言わない、活発でないので、参考にしたい」とのことだった。まっくろくろすけのミーティングを見たあと、「活発で、話し合う力はすごい高いと思いました。いつもああやって、自分たちで決めているからですね。でも…僕にはやっぱりあんな些細なことを決めるのに、長い時間をとるのはもったいないと感じる。そんなことより、なにか勉強したほうが意味があると思う。小さいことは大人が決めて、イベントを計画するとか大きいことを子どもたちでやっていったらいいと思ってしまう。そのあたりどうでしょうか?」と言われました。見学の人からそんなことを言われたことがなかったので、すごく驚きました。しかし、正直だと感じ、嫌な気はしなかったです。なぜなら、感想を率直に言ってくれるからこそ、それに私がどう思うかを答えることができるからです。せっかくなにか学ぼう、知ろうと思って、見学に来てくれるのだから、見学の人が聞きたいこと、感じたことを率直に話し合えるのを大切にしたいです。
私の答えはこうです。
ほかの人から見たら小さいと思えることでも、話し合いたい子がいれば、真剣に話せる場がデモクラティックスクールのミーティングです。どんなことでも、子どもたちで決めていけるという場です。そういった日々の積み重ねがあるから、その先生から見て意味のあると思う「イベントや遠足の企画、学校の年間の計画」なども、自分たちで協力し合って決めていく、自分たちのことなんだと思えるのだ…
と私が思っていることを話すことができました。
そして、先生の見学したミーティングも全員参加のものではなく、話し合いに出たい子だけのものでした。時間がもったいない、そんなことは関心のある子と相談に乗りたい子だけで決めてもらえばいいと考える子は出席せずに自分のやりたいことに時間を使っています。
ミーティングをどんなふうな設定でするのか、ミーティングにもいろいろと種類を作っています。そこで、どう話し合っていくのか、決めていくかについても自分たちで工夫し決めていけるのです。
いろんな多様な学びで「子どもを尊重する」とよく言われますが、
勝手にこんなことに時間を割くのは意味がないって決めないことも、子どもを、相手を尊重するってことだとも思います。
そして、参加者は「こんなことに時間を割く意味がないのでは?」と投げかけることもできます。時にはその声に応えて、「そうだね。もう十分意見もでたし、今回は多数決で決めるのはどう?」と話が進んでいくこともあります。