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時間という自由を手にして

大学生活は自由だった。
一日を過ごしていいし、お小遣いももらっていたので、たくさん使うのでなければバイトもしなくてもいい。授業はあるにはあるけど、それは自分が興味を持って選んだ授業。授業に出るのも面白く、空き時間には図書館で読みたい本を好きなだけ読んでいた。そして、一日、いちにち行く行かないは自分の選択できた。

 そんなある日、偶然バス停で会った高校時代の友達に「子どもと夏休みとかにキャンプをする野外活動指導員というのがあって見学に行くんだけど、一緒に行かない?」と誘われた。子ども好きでもなかったし、キャンプもしたこともなかったが、「テニスのサークルより目新しくっていいかな?」とついて行った。何か変わったことにチャレンジしてみたい、という気持ちが心の奥底にはあったんだと思う。ボランティアにも少し興味を持っていた。自分でも何か人の役に立てることがあれば、やってみたいと。

 キャンプ場はディーゼルエンジンの電車に乗っていった。今時ドアを開けたまま走る電車があるなんて!!空いたままのドアから川を見下ろしたり、トンネルの間は暗闇にわくわくしたり。ちょっとした小旅行の気分。その電車を降りて、バスに乗り継ぎ、どんどん登って行って、ようやく「自然の家」についた。あたりは山と田んぼのみ。まるでおばあちゃんの住む岐阜県の田舎のようだった。
案内してくれた職員さんも先輩もきさくな人だった。「学校にあるような上級生・下級生という上下関係はここにはないよ。」「子どもたちキャンパー、大学生キャンプカウンセラー、そして市役所からの職員さん、地元の職員さんなどいろんな人がかかわって、一つのキャンプをつくってる。それぞれ立場は違うけど、いいキャンプをつくるために協力し合ってやっていっています」と説明があり、確かに学校のような堅苦しい雰囲気はなかった。
その雰囲気が気に入った私は、帰り道では友達よりやる気になっていた。「ここなら大人になるのも悪くないかもと思わせてくれるかも・・・」という心の声が聞こえてびっくりした。たしかに中学高校ではひどい先生もいたが、いい先生もいたしで、そんなに大人に失望しているとは、自分の意識では思っていなかったから。
しかし、その頃の自分は、「大学を卒業したら、会社に勤めて、お金を稼いで、そう幸せでもない、かといってそう不幸でもない…充実もしていないが、ひどい目にも合わないように無難に生きていく。今の日本で大人になるということはそういうもの…」とも思っていた。なにかにやりたい仕事があるという友達をみると、すごいなぁと他人事として思っていたし、自分にはとってもできないと思っていた。中学と高校で学んだことは、「大人なんて批判したらこっちがひどい目に合うだけ、大人には勝てない、歯向かったら立場を使って復讐してくる」ということ。そして、そんな大人に立ち向かえない、自分はその程度の人間とあきらめていた。世の中にそうではない人間もいた。自分にレッテルを貼ってくる周囲に臆することなく、自分の生き方・価値は自分で貫いてつくっていける人もいたが、自分にはそんな強さも力もないので、そういった人を尊敬して、ファンとして応援している…そんな感じだった。

それでも、どこか深いところでは「なにかしてみたい」と思っていたんだろう。だから、よくある「テニスサークル」でなく、「野外活動指導員」というボランティアをしてみると決めたんだ。
表面は波風立てずに生きる術をみにつけていくのが大人になることと考えて、しかし、しっかりと意識化できないだけで、自由な時間を手に入れて、心の底ではだんだんとエネルギーがたまってきていたんだと思う。
ともかく、キャンプカウンセラーをやってみよう!!と決めた。自分にとってはちょっとしたチャレンジだった。

こうして、
大学で好きな文学から「人・生きるということは」といったことについて考えることと
休みの日はキャンプで実際にほかの人と協働していくこと、
この2つは私の大学生活の両輪となった。
以前「幼稚園の砂場ですべてを学んだ」といったタイトルの本があったが、私の場合「大学時代にすべてを学んだ」ともいえるとても濃いかけがえのない4年間だった。そして、デモクラティックスクールという言葉は知らなかったが、その内容と同じものこそが、多くの子どもが成長していく中で、理想的な環境ではないかと考えを巡らすことになった(つづく)

*なんとか最後にデモクラティックスクールという言葉が出てきましたが…。だんだん登場頻度も高くなると思います。
気長に読んでもらえたら嬉しいです。

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