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ことば、お前デジタルちゃうんけ?

ことばは便利

言語においては人間が知覚、関与するあらゆるものごとは「単語」という枠に嵌められて独立した存在になる。実体のあるものから概念のような実体のないものまで。

単語に嵌められたものにはそれぞれ性質があって同じ言語を扱う人間同士にはおおむね共有されている。

それはいわゆるデジタル化されたもの。
人間が区切りのないアナログな世界をとらえる時に定めた定義であり度量衡のひとつ

人間はあらゆるものを度量衡を使って定義してきた。
定義してきたから喜怒哀楽が区別できるし、屋根のある安定した家で金なりそうもない単語の羅列をパソコンで打ち込むことができる。

でも…

ことばは万能ではない

言葉がデジタルなものだからといって万能なわけではなく、「犬」という言葉で想像するのは柴犬かもしれないし、チワワかもしれない。
「悲しい」という言葉で想像するのは、その日限りで乗り越えられる程度のものかもしれないし、一生涯背負っていく程の負の感情を指すかもしれない。
「死にたい」という言葉を使う時は、めんどうくさい作業が発生した時かもしれないし、ついぞ立ち直れない状態に陥った時かもしれない。

その言葉の定義や重みは個人の裁量による

たとえ自分が10段階のうちの4だといっても、言葉に頓着しない1か0かでしか考えることのない人なら0と捉えられる。
自分が気を付けて発した4が強引に0とされるのはすごく悲しい。

逆に自分が100段階のうちの49だと言われても5と捉えることしかできなかったら、繊細な人を傷つけてしまうかもしれない。

ことばの弱点

現実は流動的なもので永遠に同じことはない
言葉はそんな現実の変化の少ない部分を捉えて定義するから根本的に流動することはあんまりない。
バナナはバナナであり、リンゴになることはない。
単語が捉える存在が単純であればあるほど言葉はその真価を発揮する。

でもその存在が複雑なものなら。
心を捉える時には、言葉はとても頼りない。
その時の心情を心の底から「嬉しい」と表現したとしても、心すべてを包括できておらず、「嬉しい」という言葉の裏には悲しみも怒りも内在しうる。もしかすると嫌悪感も。

自分の心をつらつらと単語で羅列して浮彫にしようとも次の瞬間、心ここにあらずといわんばかりに流動、変容していく。羅列したものがとたん贋作になる。

自分の中から発生した言葉が外界に出た瞬間、その熱量を失い、ちんけなものになる。

自分でもちんけだと感じるものを相手に渡すわけだから、伝わるわけもない。

そうして以前はあったと思う言葉に対する絶対感、信頼感は今はもうない。疑心暗鬼になりつつも言葉を使ってる。

熱量が無くなるなら熱を与え続ければいいと思って、言葉を羅列し続けると受け取る方は億劫になる。
誰が数十分も続く絵描き歌を聴き続けようと思うのか。

真球をめざして球を磨き続けたとて、真球が生まれることは決してない。
円周率がついに割り切れることもない。
レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯をもってしてもモナリザは完成しなかった。

そんなことばを活かすには

どれだけことばを重ねても真にたどりつくことはない。

だから詩や俳句が生まれたのかなぁ。

定型・ルールという制限の中で、限られた文節でしか表さないことでその余白に無限の解釈を残すというのか、カオスを閉じ込めるというやり方を確立したのはだれなんだろう。

森敦が「意味の変容」で述べた、全体概念を外部と外部に属する境界線、境界がそれに属せざる領域を内部とした…みたいな話になってきた。境界線は外部に属しているから無辺際な内部には無限の広がりが生まれるってかんじだっけな。

デジタルで正確なはずの言葉を活かすには表しすぎないことっていうのはなんか皮肉みたいだな。そもそも人間が使ってるあらゆるものさしがそれ自体を真に捉えてるか自体不明だけど

ともかく、もはや信頼はしていないけどことばを使うことでしか表層に浮上させることができない俺は、これからも表してはなんか違うを繰り返しながらことばを絞り出していくしかないんだろうな。

詩でも書くかな。





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