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絶えず代謝して今がある。(後編)

前編の続き


鹿は俺の中で血となり、肉となっている。

狩猟の現場に直面し、実際に鹿を捌いて、それを食らう。

鹿の体に実際にナイフを入れた時は動悸が止まらなかった。

それは俺が動物としてのリアルを実感していなかったから。
生きるということに真剣に対面していなかったから。

全ての生命は「自分という個体」の外からエネルギーを取り込んで生きている。

植物の大半は太陽光と水と大地から。

肉食生物は肉と水から。

草食動物は草と水から。

雑食動物は肉や草、水などの全てから。

人間が雑食動物なのには理由がある。
俺の認識だと、昔は樹上の果実を食べる植物植生だった。
だけど気候変動による植生の変化と草食動物の変化に伴い、肉食の性質を得た。
肉食により効率的なエネルギーの吸収ができるようになり、脳が肥大化し、他の動物に比べると高度と言われる知性を獲得し、現在に至る。
人間に限らず、すべての生命はそれまで積み上げられた先祖や捕食対象の屍の上に立っている。

鹿は俺の中で物理的に代謝され俺の血肉となっている。
俺は鹿を「代謝」して生きている。
その自覚と死屍累々を背負っているという覚悟と責任を持って俺は生きている。

穏健なヴィーガンとは違う文脈に存在する、過激派ヴィーガンが声高々に主張する、可哀相だから肉食をするなという言葉では絶対に納得できない。
耳障りはいいかもしれないが、実態に即していない綺麗事(戯言)を述べるなと思う。
動物をただの食品として無造作に扱うなという主張にはひとつ考える余地、いや価値があると思うけど。

キメラは存在し得ない

今まで接触してきたものを意識的にも、無意識的にも、物理的にも、形而上的にも吸収、変容してきた。その結果が今の自分。

様々な生物の長所を取り入れた神話上の生き物「キメラ」。それは単純に考えると最強だと想像しうる。だが、それぞれの長所はそれぞれの生物の器にあって初めてその真価を発揮しうるのであって、ただ付け焼刃の肉弾戦車を作ったところでそれぞれの優秀な性質がそれぞれの性質の足を引っ張るだけ。そんなものは一周巡って短所だ。

結局キメラなんて概念は言葉や記号で世界を細分化し捉えようとする人間が生み出した想像の産物であり、非現実的なものであり、それもまた一種の思考の産物でしかない。ただモノを寄せ集める行為、それは調和とは言えない。

より調和のとれた状態というのは、それぞれの長所はごちゃまぜにしたとしても、その中で一番実態に対処することができた性質を色濃く残し、その足を引っ張る性質が淘汰されたり、残った特性を助長する形に変化をしていった末の状態になること。
それこそが真の調和である。(岡本太郎的調和)
実態があり、実体となる。

ぶつかり合うことが調和。
正反対の物がバンバンぶつかり合う事によって両方が開く
相手に遠慮して何割かを抑えるのではなくてぶつかり合うことがいい。

引用:岡本太郎「太陽の塔」制作秘話 インタビュー  

岡本太郎の言う「芸術は爆発だ!」の本質の一部がこのインタビューでの言葉に込められている。

生命の進化の歴史を見てみてもある程度合点がいく。

大きければ大きいほど生存できるのかといえばそうではない。
それでは立ち行かなかった。エネルギーが足りなくなるからより小型化していった種が多い。

捕食されないことがいいことかといえばそうともいえず、植物や寄生虫などは捕食されることで寄生や、媒介を経て種の保存をしていくものもいる。

逆に捕食されないために敵勢生物に対する毒を獲得した種もいる。

すべては周囲の環境に直面し、自身を変容(代謝)させていった末の現在であり、全生命がぶつかり合い調和(代謝)した末に生態系が、現在がある。

文化や芸術だってそう。

文化とは今まで人間が積み重ねてきたもの。
それら全ても元から今ある形だったわけではない。
江戸時代の日本人が現在の洋服を着ていたわけがないことは想像にたやすい。
そのもともとの起こりは明治時代の西洋化に端を発する。
長年鎖国状態だったところに圧倒的迫力の外国船が現れ、圧倒的産業力の差を見せつけられ、必要に迫られたから外国の文化を吸収することから今の日本は始まった。従来の様式に限界がきて、新たなものを吸収し変容する。これを「代謝」と言わずなんという。

捉えづらい現代美術だって何となく捉えづらくなったのではない。
視覚情報の保存という観点ではより実態をありのままに記録する写真技術の登場で、その地位を追われた。
そうなれば単純な視覚情報ではなく、もっと抽象的なものを表現する方向にそのベクトルをシフトするのは合点がいく。これも存在の危機に直面し、その役割を変化させたという意味では「代謝」だ。

全ては「代謝」という言葉に完結する

個人然り、社会然り、文化然り。

自身に降りかかった全ての状況を解釈し、混ざり合い、物理的にも、精神的にも全く新しい自分となる。

だから俺は全ての状況を全力で代謝しなくちゃいけない。
小手先の付け焼刃のキメラの行きつく先は、抗えない死だから。

過去に代謝しきれずに後悔として残っている出来事も、この生涯で始末をつける。

絵が描きたいと思ったなら自分の衝動を全てぶつける絵を描かなければいけないし
いい曲に出会い、それを作った人に嫉妬するなら俺も作らなければいけない。歌わないといけない。
心動かされるダンスに魅了されたなら、俺も踊らなければいけない
自分の外のものも内から湧き出るものも、全てを代謝して真の自分にならなければいけない。
「心が動いたなら、それはもう俺の一部なんだ」とは俺の好きな漫画の主人公が言ってた一節。

俺は生きるために絶えずに「代謝」をして、納得の末に死ぬ。

これが鹿狩りに端を発し「代謝」という言葉に憑りつかれた俺の脳内の顛末。
結論に至ったし、自分で納得したから代謝という言葉がことあるごとに顔を出してモヤモヤすることは無くなるだろう。

今日はいい夢見れるいいな。鹿に捌かれる夢とか。

禁忌虚術開放(ファンタスチック・フィーバー)

終。

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