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示唆多すぎ!理念・価値観・イデオロギー、人間に対する基本的な見方
あまりに多くの示唆に富むので、思わず共有してしまう。
「長谷川幸洋Tonignt」2023/11/24。
まず前半の無料部分。
イデオロギーというか、理念や価値観は大事だと思うが、その理念を全世界の人々が共有できると思うのはあまりに稚拙な夢想・幻想で、まったく現実味がない。
そうではなく、例えば「自由・人権・民主主義・法の支配」といった、共通の理念・価値観を共有できる相手とガッチリ組んで、共有できない勢力に対抗していこうというのならぐっと現実的だし、そうすべきだし、そうするしか私たちの生活が守れないと思う。
「みんなで共有できるはず」と思うのと、「共有できる人々と連携しよう」というのは全く違う話なのだと思った。
で、後半、有料部分の冒頭。
人間に対する基本的な見方、人間観が一番基本的な価値観。確かにそう。
「人間は生まれながらに自由や人権を持っている」というのは、そりゃ否定はしないがやはりどこかお花畑的。どこかしら理想主義的な青臭さを感じる。
自由とか人権とか言うこと以前に「人は生まれた瞬間から一個の自律した人間であって、自由や人権など人間が共有すべき本来的な価値観もあらかじめ持って生まれており、若しくは理解できる状態で存在しており、それゆえ全世界の全人類が同じ価値観を共有できるはず」という人間に対する見方が、どこかおかしいというか、甘っちょろいというか。
そうではなく、やはり人間は生まれてから親に育てられ、兄弟と過ごし、友達と遊び、周りの大人たちに接するに従って徐々に価値観・人間観、ひいては世界観を育んでいくもの、という方が、私には真実に思える。
そうであれば、生まれ育った環境や、その環境の歴史や風土が違えば同じ価値観を共有できないのはむしろ当たり前。世界には「話の通じない相手」というのが確実に存在しており、私たちの信じる「自由・人権・民主主義・法の支配」など全く理解しない・できない・しようとしない人々が、少なからず存在する。
その前提で物事を見た方が、遥かにこの世界を説明できると思うのだが、どうだろう。
近年、同じ保守系と思われていた論客・言論人の中でも意見の相違が見られることが多い。中にはお互いに非難し合い、修復不可能な関係になる場合もある。
どちらも日本のことを思い国益を第一に考え、日本人の安全と財産保持に資することを考えていると思えるのだが、どうしても相容れないことがあるようだ。
どうしてそうなるのか、しばらく不思議であったが、このあたりの人間観の相違によるものかもしれない。いや、人間観の相違というほどの違いはなく、価値観・人間観と、そこから一歩距離を置く理論や学説のどちらを重視するか、そのバランスの問題なのかもしれない。
価値観・人間観と理論・学説の割合が8:2なのか、2:8なのか。いや、実はもっと近く、6:4と4:6くらいの違いしかないのかもしれない。
自分自身としても、その最適なバランスを模索したいと思う。