【短編】パガニーニ・デザイン
1 驚異と喝采
暗い闇ににわかに一筋の光が差し込む。
その瞬間、星空のごとく輝き出した舞台を見渡せる会場にはひとつの緊張感が張り詰めていた。
スポットライトの照らす方角へスッと現れたダークスーツの男。
彼はヴァイオリンと弓を左手に、期待に満ちた会場の大きな拍手とともに現れた。
舞台中央よりやや前方のポジションで深々と頭を下げると、長くちぢれた髪を一度振りかざし、左肩に楽器を構え始める。
右手に持ち直した神から授かったとも言える神聖なる弓で二、三度高い方の弦に軽く先を当てて調弦を済ませると、しばらくの間をおいて、色黒の顎の張った顔は無から湧きだした険しい表情を見せた。
そして透徹で芯のある一つの旋律が響きわたった。
この世の想像を絶するような無形の真理が現れる。
それは徐々に輝きを増して聴衆に届けられていった。
今までのヴァイオリン演奏の既成概念をあっさりと覆すその芸術美たるやもうしばらくは消え去ることはない。
純正律の澄み切った三度と十度の和音を鳴らすために、二本の指は巧みに正確なポジションで楽器の指板を上下に滑り出す。
如意自在という表現がここでは最も合致するのであろう。そうかと思えば、指板を左指が弦を押さえているにもかかわらず、隣りの指で弦をパラパラパラと弾き出す妙芸。
(こっ、これは……)
この時に聴いた誰もが狐に摘まれたように驚嘆かつ複雑な様相を見せた。
旋律にしても、この世のものと信じて疑わないほど、美の極限にたどり着いた完璧な演奏である。
高音で柔らかな調べの変奏。ホール全体に溶け込み充溢するサウンドスケープは過去の境遇から湧き上がった哀しみ、あるいは身体に強固に染みついていた苦しみが払拭され喜びへと浄化させることができる。
彼の弾くグァルネリの名器〝イル・カローネ〟から生まれ出る音楽は、彼のこれまでの一切の辛苦からにじみ出た創造物なのであった。
甘美にして華麗、軽やかで美しい輝きを秘める音色は、驚愕のあまりにヒソヒソとささやき声を発していたすべての者がやがて口をぽっかりと開けたまま黙り込むという異色の世界を創造した。
高音の温かな旋律は純真無垢な妖精のささやき声にも感じられる。力強い重音、装飾音のような素早い三連符の一連の鎖の輪は聴衆の神経を酔狂させた。
わずか五分の楽曲の演奏は、凝縮された技術の連なりと優しく天に届くヴァイオリンの美の歌声が豊富に盛り込まれている魅力に富んだものだった。
今日まで多くのヴァイオリニストたちによって、ヴィルティオーゾの象徴的作品に位置付けられ、好んで取り上げられている。
軽快で気まぐれな主題の後のそれぞれの特質の表れたバリエーションには多少心を戸惑わせる魔力さえ感じる。
彼のこの二四曲の最後のカプリッチョ(奇想曲)は想像以上に純粋な性質を持ち、心に淡く響く言葉のように奏でられたのである。
(悪魔なんぞここにはいるものか。音楽に宿るのは俺の魂の叫びだけだ。どうして俺が悪魔と呼ばれなければならないのだ?)
演奏中によぎる彼の疑念を暴ける者は誰一人としていなかった。
生涯この噂に悩まされていたのだが、これについて本人が納得のいく答えを見出せたのかどうかはわからない。
突如、無表情の眼差しは冷淡な表情へと一転させた。
楽器を抱えたまま、瞳の輝きはギラギラと増して悪魔のような恐ろしい笑みへと変化させたのである。
この顔つきは悪魔だと思わずにはいられない奇怪さを醸し出していた。
一本の明るいスポットライトが再びスーッと差し込み、悪魔の顔はより鮮明にはっきりと客席から確認することができる。
透き通る空間に純粋に響きわたる鐘のようなハーモニクス。弦に軽く触れて倍音を出す特殊な魔術を多用させて、安らかにもたらされる沈静は個々の聴衆の魂に祝福を呼び入れる祈りの鐘である。
楽器の指板上で左手を滑らすことにより甘美な彩色感を印象づけるポルタメント。陽の光の根源のような存在である絶え間ないバリエーションはさらに聴衆を感化させていく。
三度と十度の重音の煌めきが連続的に生成される。
きわめて響きの聴き心地よく、澄みきった純正律の音楽美の展延。
彼の奏でる崇高なる音楽に巡り会えた者たちは、更なる魂への揺さぶりに意気が揚がるのを幾度となく覚える。
今までの特殊奏法の常識を覆し、〝移れば変わる世の習い〟で価値観の変化がそこにあった。
すべての音が感銘の波となって押し寄せ、そこにいたすべての者がこの場にいる運命に戦慄を感じないではいられなかった。
最後は目まぐるしく駆け巡るアルベジオの動きで華麗な名演は締めくくられる。
ホール内は熱狂の渦が巻き起こり、立ち上がって歓声を上げる者、しまいには興奮を隠せずに周囲と口論を起こす者も出始めた。
この場に居合わせ、度肝を抜かれた音楽関係者も少なくない。
超絶な技巧を繰り広げる鬼才に賛美を贈る者もいれば、執拗な演奏技巧の取り入れ方に逆に批判をする者も現れた。
悪魔に自分の身を売り渡した見返りと言われる人間離れしたテクニックは嘘ではなかったと誰もが信じて疑わなかった。
彼の悪魔と呼ばれている所以はこうした噂が全世界に拡がったことにある。
2 名声とクリティシズム
その彼の名前はもう説明するまでもないだろう。
西洋音楽史上最も著名なイタリアのヴァイオリニストで作曲家のニコロ・パガニーニ(1782-1840)である。
当時、彼の演奏テクニックの偉業においては右にでる者はいなかったと言っても過言ではない。
ヨーロッパにおいて一大センセーショナルな反響を巻き起こし、多くの同時代の作曲家・演奏家に多大な影響を及ぼしている。
歌曲の王と言われているフランツ・シューベルト(1797-1828)は生活に困窮していたにもかかわらず、パガニーニの公演を聴くために資金の調達を済ませ、高いチケットを入手している。
1828年3月29日、聴いた曲は彼のヴァイオリン協奏曲第二番ロ短調。
全曲通じて超絶技巧が繰り広げられる難曲とされているものである。
シューベルトは全曲通じて繰り広げられるテクニックよりも、第二楽章のアダージョに「天使の声を聴いた」と語っている。
それほどこの美しい歌は、旋律を編み出すことに長けたシューベルトの心を強く掴んだのである。
ロマン派の代表的な作曲家ロベルト・シューマン(1810-1856)と結婚する前のクララ・ヴィーク(1819-1896)―シューマンと結婚してクララ・シューマンとなる―の演奏をパガニーニはライプチヒを訪れる際に聴いたことがあった。
当時名声を得ていたパガニーニであったが、弾いたポロネーズを聴いて、大いに絶賛したことが伝えられている。
その三年後にパガニーニはフランクフルトを訪れ、巡演をした際の演奏を聴いたシューマンは次のようなことを述べている。
「今までに聴いたこともない音色で始まると思いきや、細々しい音色で始まった。まったく想像していた音ではなかった。やがて彼の魔術はささやきを始め発揮される。彼の醸造するエネルギーの連環は客席全体を包み、複雑な感情に誘うかのようである。次々と織りなされる音の美しさに聴衆は引っ張られている。音と音が感化しながら、音同士が染まり合いバランスよく溶け合って渾然一体となったものが、今度はパガニーニ自身と一つになる」と。
そしてパガニーニのパリ公演で、驚異的演奏に戦慄を覚えたのはピアノの巨匠フランツ・リスト(1811-1886)である。
1832年4月20日のオペラ座にて、20歳のこれからというタイミングで超越した力に衝撃を受けたのであった。
〝ピアノのパガニーニ〟をめざす決意を固め、ほとんどの時間をピアノに向かって、自己の確立のために錬磨を重ねたのである。
そして、知人に宛てた手紙にはパガニーニに出会ったことについて、驚愕の様子を述べている。
「何という人物、何というヴァイオリン、何という芸術家だ。彼の四本の弦には、いかなる苦渋に満ちた哀しみが宿っていることか」
革新的なモデルとしてパガニーニを見据えるのがリストの本質的な目標だった。
彼の心を駆り立てたもの―形式、主題の自由性において―は再現音楽の分野の開拓の先端にあった。
リストは見極める。
自分のできる洗練された技術を研磨するべきであると。
パガニーニが与えた影響には限界値がある。
人間的な価値を備えつつ磨かれたアーティストを目指す決意を固めるべく、淡々と練習を積み重ねたのであった。
リストの思念は、やがて超絶な技巧のみならず、ピアノの音色においてかつてない装飾的魔力を駆使した華麗な手法をアイデンティティとしてものにした。
それだけ、パガニーニに具わった美技に威圧されたことの衝撃度が想像につく。
だが、一台のピアノソロの形式の公演を桁違いの数字でこなしたリストは、パガニーニの美学をそのまま踏襲したに過ぎなかった。
言わばパフォーマンスの時代の到来とも言えるのであるが、ピアノの色彩豊かな響きはリストのオリジナルに留まったのである。
その後の時代もピアノだけに限らず、ヴィルティオーゾがしばしば現れているが、パガニーニやリストの作品は演奏はされても、それ以降の新しい手法が後世に拓かれているようなことはない。
無風の状態から
次第に冷たい風が吹きすさぶ
小さな音から激しい音へ
柔らかき、さざ波から
荒れ狂う嵐へ
左手の指のさばき
右腕の弓にかける圧力
千変万化の音の輝きは
悪魔のささやきから
生成される
この魔術たるや
いかに形容すべきなのか
踊り狂う音楽に
聴く者たちの心は奪われ
記憶に残る興奮を誘う
彼の魂を抜き取った悪魔は
ヴァイオリニストを容易に操り
前人未到の技芸は
聴く者の音楽観を覆す
パガニーニの超絶技巧の援用は格段に色彩やクオリティの映えに至らしめたのは確かなことであった。
しかし、その多用を巡って賛否両論を招いているのもまた事実である。
3 栄光と低迷
パガニーニの才能の開花のその裏には、彼の幼年の壮絶な苦悩が隠されている。
生れながらに病弱でありながら、その背景には父親アントニオの強欲の影が常に付きまとっていた。
パガニーニが五歳の頃にヴァイオリンを習うのは、音楽好きの父親の強制があったからである。
商売をそっちのけで、過酷にして暴虐なる教育・指導のうえに一日のほとんどの時間をレッスンに充てさせられるほどであった。
叱責が跳び、殴りつけられるのは茶飯事で、食事を与えてもらえないこともしばしばであった。
彼の才能を引き出そうとした厳しさの果実は彼自身の勤勉と忍耐と努力が積み重ねられたこともあり、大ヴァイオリニスト・パガニーニを生み出す結果となった。
しかし、独学の感性は人間としてのパガニーニを創造することはなかった。
成長していく過程で、倫理的教育が完全ではなかったことは否めない事実であった。
彼の人生は名声とともにヨーロッパ中の目まぐるしいツアーで稼いでいた幸せの高波に乗っていた全盛期、そして、親譲りのギャンブル好きが度を越してのめり込み過ぎ、演奏で稼いだ収入を充てて、その日の生活に苦慮するような低迷の時期もあった。
その他にも後述する身の上に火の粉が降りかかるような事態を招いた時期もあり、波乱に満ちた生涯だった。病状においても、彼の身体はますます蝕まれていくばかりだったのである。
1836年のことだった。
パガニーニの身の上に投資の話が持ち上がった。
カジノの建設に協力を求められ、それに賛同したのである。興行主やら不動産仲介業者、そして弁護士までを信用し、計画の進行を見守りつつ六万フランの多額の金を出資した。
その「カジノ・パガニーニ」は翌1837年10月には完成を見ることになる。
音楽興行と娯楽施設を兼ねた芸術振興のための会員制の社交の場としての機能を備えたものだった。
そして中規模のお抱えオーケストラをも備えていたが、結局、カジノとしての認可は下りることがなく、コンサートを開催することで利益を得るしかなかった。
パガニーニは演奏の契約は交わしていたにもかかわらず、体調が思わしくないことを理由に演奏をすることはなかったといわれている。
いくらか身体の調子が回復してきても、彼はここでは演奏することはなかった。1839年にはカジノの責任を負う管理者から、とうとう契約上の不履行で訴訟を起こされることになってしまう。
そして、二万フランの損害賠償請求を被ってしまうのである。
その間、財政的にも精神的にも苦境に立ったパガニーニは、健康状態が快復しないため、南フランスの温暖なマルセイユ地方での静養にはいった。
他の作曲家の作品を聴いたり、多少の上演にも加わり、安楽な心緒で過ごした。
1840年の再審では、有能な弁護士、シャルル・シェ・デスタンジュ(1800-76)に弁護を依頼し、原告側と激しい主張を繰り返した。
「杜撰な中身の薄弱な経営であって、パガニーニの名声と傑出したテクニックを利用しようと、口先だけで取り繕って本人に出資させている。他の公演では演奏しないと公約していたにもかかわらず、過剰な賠償を求めるのは納得ができない」と主張。
原告は原告でカジノ・パガニーニは閉鎖の下命処分と相成り、破綻に至るは必定だった。
判決では賠償金が5万フランに膨れ上がり、この支払いに応じない場合は10年の禁錮刑に服さなければならない不利な賠償命令だったのである。
彼のこうした賭け事や投資の背景には一人息子のアキーレへの想いが強かったことが挙げられる。
妻のビアンキとの離婚後、息子を引き取り、卵を温めるかのように愛し、ゆくゆくは一定の財産贈与を見据えていた故の行動であった。
類まれなる演奏でセンセーションを巻き起こしたパガニーニのような人物は、これまでの演奏史上では見かけることは珍しい。
1828年3月、ウィーンでのツアーを開始し、狂騒の渦をまく熱気と興奮のなかでパガニーニのロ短調の協奏曲は演奏された。
ヴァイオリニストとして、すべての点の技量から生まれる燦々たる黄金色の音のしずくが聴衆をハイテンションの狂気へと陥れた。
悪魔の魔術に操られていると信じられていたパガニーニは、続いてナポレオンソナタの演奏準備にはいる。
この曲は4本の弦のうち、一番低いG線のみを使って弾く音色の豊かな音楽である。
彼はなんとD線、A線、E線の三線をわざと切って、一本の弦を残しその弦だけで演奏を始めた。
これに度肝を抜かれた聴衆は天地が逆さになったような大きな衝撃を受けた。
このウィーンのツアーで、巷はパガニーニの話で持ちきりになった。
四か月の滞在期間のうち一回で普通の公演の収益の数倍を稼いだというから驚きである。
社会の風潮としてパガニーニの公演チケットは5グルデンまで跳ね上がり、5グルデン紙幣を〝パガニーナー〟とまで言われた。
そして街の料理店ではヴァイオリンのかたちを模したケーキのほか、ステーキ、パンなどが考案され、それらにこぞって「パガニーニ風」と名付けて商売の繁盛を願ったという。
そして、ハンカチ、ネクタイなどにもヴァイオリンの刺繍や彼のサインを入れたものが流行の先端となったのである。
パガニーニはその後、1829年にベルリン、1831年にはパリとロンドンでツアーを行って、いずれもセンセーショナルに扱われた。
ベルリンでは原因は定かではないが、客席の後方では乱闘で揉み合うさわぎもあったらしい。
あのメンデルスゾーン(1809-1847)の師匠であるカール・フリードリヒ・ツェルター(1758-1832)もベルリン公演の彼自身の驚異的興奮を伝えている。
パリでは逆に印象が悪かったが、パガニーニを敵にまわすほど他の国とは事情が異なっていた。
だが、演奏ではずば抜けた成功を収めている。
もはや16万フランという収入を得、長者としての地位にのぼりつめていた。
さらにロンドン公演では21回、ダブリン、その他の都市をそれぞれ訪れ、総合250回の公演をつとめあげ、数年をかけて日本円で80億円という巨額の富を築き上げたのである。
4 逸話とその死後
一つ演奏上の逸話を紹介しよう。
パガニーニは演奏上ではアンコールに応えることは決してなかったという。
ロッカ宮殿において彼が一曲を弾き終えた際に、客席から「アンコール、アンコール」と声が聞こえてきた際に、
「奥様、ご要望にお応えすることができずに誠に申し訳ございません。わたしは際限のないアンコールから身を護ることにしているのでございます。これまでアンコールにお応えしたことは一度もありませんし、これからもそれは変わらないのでございます」と丁重に断った。
声の小さなパガニーニはその後も「アンコールはしません」と訴え続けたが、まったく理解されずに聞き入れてもらえなかったらしい。
フランスとイタリア北部にまたがっていたサルディーヤ王国の王の前で演奏した折にも、王がアンコールを求めた際に、はっきりと断りを入れた。
これを不服とした王はパガニーニを二年間、国外に追放したと言われている。
パガニーニは1820年代、多忙を極め演奏活動に専念していたが、この頃からすでに健康状態には悩まされていた。幼い頃から発疹しやすく、気管支や膀胱炎を侵され、激しい咳の発作に苦しみつづけていた。
多数の医師に診察をしてもらっても、中にはイカサマな処方をする者もいて、彼の容体は改善に向かうことはなかったようである。
当時処方されたものに、熱さましにアルチモン、性病に水銀、痛み止めにアヘンと、今では有害な薬品が常用で使用されていた。
日常で毒殺されるようなことも普通に起きている状況だったらしい。
また、これによるつらい副作用などによる障害からも逃れることはできなかったという。
パガニーニは水銀依存症に苦しみ、視力や運動機能の低下、体重の減少、気力の衰退などの症状を訴えていた。
これらに加えて、晩年の二年には失声症、歩行困難を伴い、普通に歩くこともままならなくなった。
息子のアキーレだけは彼の理解不能な言動を人に伝えることができ、常に行動を共にしていたのである。
1834年の夏にはイギリスを後にし、パガニーニは母国イタリアの地に帰ってきた。
財産の一部を自宅の購入に充て、パルマのガイオネに居を構えることになった。
健康状態は大変深刻で、自ら声を発することなどはもうかなう状況ではない。翌年は自宅とジェノバ、ミラノなどを移動して静養していたのであるが、1837年には健康状態を多少持ち直したため、トリノで貧民の救済を目的とした慈善演奏会を開いた。
前述の“カジノ・パガニーニ”のオープンした年である。
二年後の1839年まではパリに滞在し、様々な演奏会に出かけている。
その一つが1838年12月16日、オペラ座で行われたベルリオーズの主催する演奏会である。
ここでは自作のヴィオラ独奏付き交響曲「イタリアのハロルド」と幻想交響曲が演奏されたのを聴いた。
この頃にはヴァイオリンの演奏を引退していたパガニーニは、実はヴィオラの名器を手に入れており、ベルリオーズに、
「わたしが弾くヴィオラ協奏曲を書いていただけないか」
と依頼をしていたのだが、創作の過程ではパガニーニの嗜好に合致する自身の技術を活かしたものとはいえなかった。
ベルリオーズもパガニーニの求める技術を駆使した曲は書けないと結論づけるまでに至り、この話は破談となったのである。
この「イタリアのハロルド」の演奏機会に恵まれて、ベルリオーズの二曲の大作を聴いたパガニーニは舞台に上がり、ひざまずきながらベルリオーズの手に接吻をして最大の賛辞を贈った。
彼の音楽に奇跡を感じたことは間違いなかった。
そして、その前には息子のアキーレがパガニーニの手紙を届けに行っており、封書の中にはなんと、2万フランの小切手が同封されていたことにベルリオーズは驚嘆していた上でのことであった。
裁判の判決のあった年の1840年5月27日、パガニーニの虚弱な身体はついに力尽き、永遠の眠りについた。
しかし、パガニーニは生前にローマ教会の儀式を執り行わなかったために埋葬の許可が下りておらず、哀しみの亡骸としてさまよいの時日を経なければならなかった。
生前から彼のもとに訪れていたニースの司教は、彼の信仰に従順な姿勢が見られなかったことを理由に、聖別を行わずに埋葬することを承諾していなかったのだ。
パガニーニを哀れに思った芸術家たちは厳かに葬儀を進めるように要求をするが、まったく聞き入れられることはなかった。
唯一、許されたのは遺体を自由に移動させることだけだったが、遺族はこれに納得するはずもない。
しばらくの間、遺体は彼の亡くなった部屋の地下室に安置されていたが、その後、ニース、コートダジュールにあるヴィルフランシュの病院、ジェノバに近いポルチェベーラと転々とすることを余儀なくされ、最後の地で四年間留保されてしまう。
遺体を安息の地に静置することはこの間も許されることはなかったのである。
アキーレはたまりかねて、父親をローマ教皇から勲章を授かった騎士であることを事由として、再び葬儀を行えるように申請をする。
今度はこれが功を奏し、「騎士」として申し分のないステッカータ教会で葬儀は厳粛に執り行われた。
かくして、1845年5月にようやくガイオネにある共同墓地に埋葬することが叶ったのである。
そして遺体は防腐の処置がされつつ、1876年11月、アキーレの主導のもとで、ガイオネの丘陵地からパルマ近郊の墓地に再び移され埋葬されている。
1839年には大規模な霊廟が建てられ、ようやく安らかなる眠りにつけることになったのだった。
だが、どうしたというのだろうか。埋葬されて五十年の永い歳月が経つというのに、1895年9月7日に「アテナウム」誌はパガニーニの遺体が掘り返されたたと報じた。
なぜ再び、掘り返されたのか。
誰が言い出したかはわからないが、もっとグレードの高い中央墓地に移す話が持ち上がったというのである。
しかし、そのような事実は今も確認できていないままである。
5 作品と真髄
彼の代表的な作品である「ヴァイオリン協奏曲第一番ニ長調作品六」を取り上げ、本曲の音楽的な性質に触れてみよう。
多くの演奏家が超絶技巧を駆使して名演を残しているところであるが、その魅力は聴けば一目瞭然であるところは疑いがない。
第一楽章の初めは主音Ⅾによる堂々としたファンファーレに始まるオーケストラのテュッティ(全奏者による総奏)である。
曲が始まる序奏の部分であるが、この時代には珍しくシンバルとバスドラム(大太鼓)が使用され、特有の華麗な効果に一役買っている。
短い厳かな導入部の後には、軽快で感情豊かなはじめの主題が第一ヴァイオリン中心に進行していく。
一旦これらが収束すると、第二の主題がフルートなどの木管楽器によって哀愁を帯びるように奏でられ、ヴァイオリンがそれに呼応するようになる。
オーケストラは提示したテュッティを終えるために、明快なまま曲の展開を一旦語り終え、独奏ヴァイオリンに次の躍動を期して引き継いでゆく。
しばらくこの楽章の各主題は独奏ヴァイオリンによって、多様性を鑑みようと形を変えつつ、やがて技巧のひとつとして長三度の美しさが心地良いパッセージが始められる。
これは主要主題のこれからの展開を導くかのように現れ、32分音符の早いうねりと三重音の破裂を経て、提示部の第二主題の甘い哀愁を漂わせる。
美的感覚が研ぎ澄まされるような刺激を受ける部分である。
なぜこれほど美しさがあふれ出るほどに歌い上げることができるのだろうか?
それはヴァイオリン演奏家としてのパガニーニがその魂を心身に宿し、音楽という表現手法を完全なかたちで支配し、その精神を後世のヴァイオリニストたちが着実に引き継いでいるからにほかならない。
演奏は再び長三度の和音の軽快で美しい響きが進行するが、独奏ヴァイオリンの提示するすべての一六分音符は煌びやかな音の世界を解き放っている。
オーケストラは各要所で八分音符の刻みやテュッティ、伴奏を独奏ヴァイオリンに添えて、この提示部は最高潮に達する。
伴奏を止めたところで、独奏ヴァイオリンは高音部におけるハーモニクス奏法による倍音を生成させ、キラキラと輝く宝石のような装飾を施し、提示部は次の展開へと移行する。
次は先に繰り広げた華麗な主題たちが、展開部で拡張・発展していく場面である。堂々としたオーケストラの高鳴りで、独奏ヴァイオリンのカデンツァの華やかさに満ちた動きが導かれる。
冒頭のファンファーレと同様のテュッティに見守られて、表面上は堂々としている独奏ヴァイオリンだが、繊細な気持ちを隠せない様子をみせている。
独奏ヴァイオリンは哀惜に満たされてエレジーを歌い上げるが、気を取りなおしてオーケストラのテュッティを伴ったカデンツァに立ちかえる。
ここでは胸を膨らませるような感動を呼ぶパワーを炸裂させるが、時として憂鬱な表情を見せたかと思えば、途端に踊り狂うような三連符のタランテラ―イタリア・ナポリの3/8、または6/8拍子の舞曲―も登場する。
パガニーニ独自の表現である弦の上をひと弓で躍動するスタッカートは誰もが釘付けになる不思議な魅力がある。
先程のエレジーのフレーズが独奏ヴァイオリンで再び顔を覗かせると、また印象づけるかのよう生命感にあふれた三連符とスタッカートの踊りが繰り返され、不気味な和声の三重音が続いて次の展開につながる。
第二主題の再現部。難しい技巧はここでは小休止となり、提示部で示された主題を原調のニ長調で感情豊かに独奏ヴァイオリンは歌い上げる。
同じ調性を維持しつつ、長三度の美しい響きの音形は変わることなく再現される。
この造形美を維持しつつ、本楽章の前半と同様の形態を繰り返し、これから大規模に繰り広げられる独奏ヴァイオリンのカデンツァのために、オーケストラは最善を尽くして華麗な超絶技巧が始まる環境を整えようと高らかにテュッティで出迎える。
カデンツァ(EMILE SAURET作)は本曲の独奏の初めの出だしをさらに複雑なリズムや和音を加えながら、虹のかけ橋のような彩り豊かな色彩感覚を我々に味わわせてくれる。
時に人生に疲れて心の奥底で悩み、歎き、はたまた努力を積んで希望を持ち続け、最後は高らかに笑うといった人間ドラマがここには凝縮されている。
パガニーニ自身が開拓したヴァイオリンの演奏技術のすべてを余すことなく三次元空間へ放出させている。
ハーモニクスの倍音は瞬く間に散りばめられ、細かく素早いスタッカート風のパッセージは上がっては下がりの波をうねらせる。
ここでは気持ちの高揚感は決して抑制されるようなことはないのだ。
左手は弦を押さえながら別の指で弦を弾き出し、コロコロと小石がこぼれ落ちるような音響をはじき出す。
美しい重音奏法は三度と十度の純正律で可能な限り繰り広げられ、楽器の高鳴りはますます勢いづいていく。
早い16分音符が歯切れ良く鳴り響いていくうちに、オクターブの音階が指板上を上へ下へと軽やかに滑りながら神経を昂ぶらせ、この楽章を締めくくるオーケストラにつながれる。
オーケストラは軽快に初めの提示部のテュッティを繰り返し、心に響くエンディングで第一楽章は昂然と閉じられる。
第二楽章はひとつの短い物語を思わせるロマンスである。
パガニーニの緩徐楽章は技巧よりも旋律美を重要視して表現され、その前後の楽章とのコントラストを強調させる場である。
それほど弾くにが難くないヴァイオリンの歌声。ヴィブラートを微妙に使い分け、独奏ヴァイオリンは旋律を感情込めて揺さぶりつつゆっくりと歌わせる。
オーケストラの最初の序奏はドラマチックで、中間部は独奏ヴァイオリンの伴奏形のリズムをとっている。
そして後半は独奏ヴァイオリンと絡み合いながら、再び盛り上がる響きをみせ、最後はともにフォルテシモのdisのテュッティを響かせて、永遠の愛の別世界へと音楽は消え去っていく。
わずか数分の愛情あふれる物語も束の間、ピチカートの弦の伴奏で第三楽章は開始される。
協奏曲で最終楽章に比較的置かれるロンド(遁走曲)―本楽章はA・B・A・C・Aの構造を持つ―であり、主要主題が別のいくつか主題を挟んで再現する形式である。
ここでも弓を弦の上で素早くスタッカートで跳躍させる奏法が繰り返される二拍子の軽快なニ長調の主要主題Aはとても印象に残りやすい。
伴奏に支えられてひと通り独奏ヴァイオリンが主題を奏し終えると、オーケストラがそれを受けて「さあ、これから楽しいロンドが始まりますよ」と語るかのように、次の展開への橋渡しを行う。
幅の広い十度の音程を交え、始めの主要主題Aはさらに形を変えながら五線より高い位置で、独奏ヴァイオリンは三度の重音で優しく語り始める。
これは主題Bに相当する部分で、天使のささやくようなやさしさは人々の安寧を願い、心の豊かな精神へと導いてくれるような温かみがある。
これが一六分音符の早い動きに変化していくと、さらに目まぐるしい三連符の星屑が空から降り注ぐように舞い降りてくる。
オーケストラの力強い伴奏とともに、スタッカートを含む主題Aの属性がここでは支配していく。
美しいハーモニクスのあとに完全形で主題Aを再現し、オーケストラがテュッティで応えるのは前半と同様である。
そして新たな主題C。これもそれほど難しい旋律ではなく、逆に独奏ヴァイオリンが楽器の特性を活かして歌わせる意図がある。
弦楽器というものはなるべく移弦を伴わせずに一本の弦の上で歌わせると、感情豊かに表現ができるように作られているのだ。
主題Cは四本の弦のうち、Ⅾ線とE線を中心にして美しく歌い上げられる。
高音域で奏でられる透明度の高い音質は、突如、変形して展開される主題Aに遮られ、オーケストラの助けを借りながら最後の主題Aの再現に入る。
独奏ヴァイオリンとオーケストラが順にこの主題を強調したあとは、オーケストラのテュッティに擁護されながら、主題Bの後半に現れた三連符の星屑たちが原調のニ長調で現れる。
この後もオーケストラは独奏ヴァイオリンがいよいよエンディングを迎えるために、収束しようとコーダの準備を促す。
両者が威風堂々と進行するフィナーレは独奏ヴァイオリンの繰り広げられたあらゆる技巧を詰めた本曲を締めくくるのにふさわしい持ち味を活かし、その軽快な表情を華やかに結ぶのである。
パガニーニの作品が演奏される際は、想像を超えたテクニックと質の高い旋律美で人々の精神に潤いと覚めやらぬ興奮をもたらしてきた。
西洋音楽史を彩るこれらの史実は音楽関係者や愛好家の誰もが知るところである。
ヴァイオリン奏法を開拓し、それらを自作の曲に織り込んでおびただしい数のリサイタルツアーを重ね、名声を得た功績、そして多くの転落を経験した波乱に満ちた人生。
新しい音楽を聴衆の耳に届けた史上稀に見るヴァイオリストの精神は今も多くのヴァイオリニストたちに受け継がれていることは先にも述べた。
パガニーニの音楽を通じて多くの人々が受けたアジテーションは今日でも希望と喜びを誘う。
このような革新的でオリジナルな領域をあまねく世界へと知らしめた彼の仕事を見過ごしてはならない。
音楽の発展の変遷や音楽そのものの本質を理解されずに空疎な音楽論が蔓延してしまえば、こうした先人たちの悔恨の念が尽きないことに我々は気づくはずである。
(了)
【参考文献】
●『小説パガニーニ』フランツ・ファルガ著、佐々木庸一・翠共訳、音楽之友社、1970年5月20日第1刷発行
●『哀しみのヴァイオリニスト 人間パガニーニ伝』スティーブン・サミュエル・ストラットン著 角 英憲訳 (株)全音楽譜出版社 2022年6月15日第1版第1刷発行
●『シューマン』伊庭 孝著 (株)音楽之友社 昭和25年11月1日発行
●『悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト パガニーニ伝』浦久俊彦著 (株)新潮社 2018年7月20日発行
●『ヴァルザーの小さな世界』から「パガニーニ」ローベルト・ヴァルザー著 飯吉光夫編訳 筑摩書房 1989年8月25日初版第1刷発行
●『青の男たち〜20世紀イタリア短編集〜』から「パガニーニは二度繰り返さない」アキーレ・カンパニーレ著 香川真澄訳 新読書社 1999年4月24日初版1刷発行