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【短編】B&M ② ~小ロンド形式による二人の作曲家のリレーション~ 2 エピソードB~苦労を重ね、傑作を残した偉大な音楽家 天界の対話Ⅰ~

 あなたは、17世紀にドイツに生まれ、その生涯で作曲活動を全うするとともに、教会でオルガンの演奏や宮廷楽師の仕事を務められました。

そして後世に〝音楽の父〟として大きな功績を残されています。

現代でも多くの人々にあなたの曲が愛され続けているのは、バロック時代の作曲家として空前の数の作品が根底にあるからだと思います。

あなたの心を音楽に向かわせた背景には何があったのかをお聞かせいただけますか?


バッハ わたしが生まれた家系はもともと音楽家が多く輩出されていたこともあり、小さな頃から音楽に親しむ環境にあったことは確かでした。

従来はパン職人や毛織物職人が多い一族でありましたが、音楽に関心を持つようになってからは、わたしの四代前のファイト・バッハ(1550頃―1619)が音楽を愛好しており、パンを焼いて生計を立てながら当時のツィター(現在のリュートに近い楽器)を自ら弾いて楽しんでいたのです。

音楽の偏愛ぶりが次第に子孫へも伝わり、音楽を好む者、生業とする者も現れ、わたしの代の頃には音楽一家を成していたと言ってもよいでしょう。

生活の中で音楽に触れることはごく自然であり、喜びを感じるまでになっていましたから、わたしの身体と音楽はナチュラルに一体化していくほどでした。

 性格上、一途なところがあるのでしょうね。とことんやり抜かないと気が済まないが上に、不条理なことにも納得がいかない頑なところは、物心がついた頃から変わりはありません。


 あなたの作曲生活の道のりは決して平坦ではなかったことと思いますが、例えばあなたにはどのような苦難が降りかかったのかお聞かせください。


バッハ 二度の結婚で、初めのバルバラとの間に7人、アンナ・マグダレーナとの間に13人の子供が生まれました。

そのうちバルバラの子供が三人、マグダレーナの子供7人は早逝してしまい、深い悲しみを味わいつつも、残った子供たちのために生活を支えなければならないことが頭から離れることがなかったのです。

そのうち、長男のヴィルヘルム・フリーデマンや三番目のカール・フィリップ・エマヌエル、九番目のヨハン・クリストフ・フリードリヒらが作曲や演奏に携わってくれたことには安堵しました。

人生を通じて音楽関係の職に就けたことは幸いでしたが、幾多の困難を伴う事態に遭遇しつつも、作曲を通じて音楽を演奏できることに大きな喜びを感じていたのです。

喜びも悲しみも幾年月、真っ当な人生を送れたことに感謝するほかはありません。


 基本的に真面目な性格と粘り強さをお持ちなのですね。最終的にたどり着いたあなたの音楽とは何だったのですか?


バッハ 初めのうちはやはり古今の形式を模範にしていましたが、次第に一つの主題を重ね合わせて展開する構造の音楽にこだわるようになりました。

先の開拓者の研究によって、形式として統制化するとともに。次第にいろいろな編成の音楽にも適用していくようになり、徹底的な洗練を試みました。

それを〝フーガ〟という性格を伴わせて楽曲の調和を求めたのです。


 今この現代において、あなたの作品はクラシック音楽のなかでは恐らく最も多くの作品が演奏され、こよなく愛され続けています。このことをあなたはどのように思われますか?


バッハ 生まれたアイゼナハの町は、宗教改革で知られるマルティン・ルター(1483―1546)が学んだと言われる聖ゲオルグ教会教区学校がありました。

この頃のドイツはキリスト教が生活と密接に関わり合っていましたので、わたしも物心がついた頃にはルターの訓導を自然と心得るようになっていました。

したがって、幼い頃から宗教音楽に親しみ、アルンシュタットのボニファーツィウス教会のオルガニスト、ザクセン=ヴァイマール公の宮廷楽師・オルガニストの招聘を受けるとともに、ヴァイオリンを弾きながら指揮もしているような状況だったのです。

その後も、いくつもの異なる環境で経験した同様の音楽職が、多様な楽曲を創作するための原動力となって学びにつながりました。

 こうした影響で一定の作風を築くことになり、対位法による作曲技法で豊かな調和による楽曲を生み出すことができたのではないかと思います。ハーモニーとのバランスを一貫として求めてきたことでしょうね。


 作品を多用な目的で書き続けてこられて、一番気に入っている曲を挙げるとすればそれは何でしょうか?


バッハ 教会でオルガン曲や礼拝の場でカンタータなどをそれらの環境に応じて自演することは頻繁でしたから、自然と多くの作品が生まれ出る状況にはありました。

気に入った作品? 考えたことはないですね。

個々の作品を比較して公言するようなことは控えたいと思います。


 宮廷楽師長など多彩な職を歴任されて、相当をお忙しかったのではないですか?


バッハ 作曲のほかに礼拝や結婚式の場で自作を指揮し、オルガン、ヴァイオリンを弾く傍らで、教会と付属学校でカントルという責任ある職にも就いて、初歩の宗教教育とラテン語と音楽を学生に教えていました。

そういう環境に恵まれて仕事のやりがいは非常にあったわけです。1723年にはライプツィヒの教会をマネジメントするカントルの職に一時就いていましたから、せわしなかったことは確かです。

その中で作曲をしていたという事実はありましたし、仕事上で演奏する作品以外に、依頼されて作る曲もありましたから、気持ちにいつも余裕があるはずはなかったのです。


 そうした環境のもとで、多大なご苦労があったことは様々な伝記や研究からも窺えています。何か一つエピソードをお聞かせ願えればと思いますが。


バッハ 定職中は色々な衝突が起こりましたね。もうよく知られていることです。

けれども、ライプツィヒの聖トーマス教会学校の校長である長老、ヨハン・ハインリヒ・エルネスティが亡くなり、その後に就任したヨハン・マティーアス・ゲスナーはわたしを大変理解してくれていました。

優秀な歌唱力の持ち主も輩出した合唱団と楽しく仕事をしていたのです。

ところが、ゲスナーが去ったあとがいけませんでした。

相性のよくない方の就任で、彼との間に予想もしない摩擦が生じたことがありました。

彼ヨハン・アウグスト・エルネスティは当時20代で就任した優秀な人物でしたが、副指揮者の任命を巡って相当揉めたことがあったのです。

市参事会(ヨーロッパ中世都市の市政機関)を巻き込んだうえでトラブルとなり、結局、彼の言い分が認められ、仕事が思うようにならず納得のいかない釈然としないものとなりました。

もっとも、こうしたわたしの頑なな性格がいけなかったということもあります。

他人との軋轢や悶着がほかにも結構ありましたし……

あとは作品そのものを反自然的で時代に逆らった作風だとヨハン・アドルフ・シャイべ氏からも痛烈な批判を受けたことがあります。

新しい時代による考え方からくるもだと思うのですが、わたしの全うした極度の対位法が肌に合わなかったのでしょう。

友人J・S・ビルンバウムの助力を得て反論もしましたが、それも功を奏するようなことはありませんでした。

身に降りかかった火の粉を振り払わなければならないのはすべて家族を守るためです。

生計を立てていくだけの収入は維持することがどうしても必要でしたから、このことは譲れなかったのです。

これらはほんの一例で、音楽を続けていく上で、人との間で確執が多く生じたのは間違いあません。

しつこいようですが、家族、自分、音楽を守らなければならなかったのです。


 では、そういうあなたの音楽観とはどのようなものなのでしょうか?


バッハ 宗教への信仰心からでしょうか? 

子供の頃からそれが潜在意識に深く擦りこまれていたのは音楽づくりに大きく影響していましたね。

神が礼賛に値することは音楽を通じて表現してきたことが一つあります。

そのためにカンタータなどの宗教をテーマにした音楽を創り続けてきましたし、そこに人間の喜び、哀しみ、苦しみ、願い、祈りを表現することを意識してきました。

形式上は先人の対位法を自分のものにできないかと考えていた時に、自分の性格からなのかもしれませんが、ただ対位法によるフーガを継承するだけでは物足らなく感じました。

二重のフーガから多重性のフーガまでを試み、上下を転回させる反行型のもの、音価を拡大したり縮小したりしたらどうだろうかと思考を重ねました。

中途半端なことはしたくありませんでしたので、入念に構築した構造を様々に適用していったのです。

実演においても気持ちよく聴いてもらえる音楽が成立した喜びは何事にも替えることはできないものでした。


 後世の音楽愛好者にこれだけ広く親しまれた音楽を世に送り出した仕事は、誰もが認めるところだと思います。

人類の文化遺産の一つだと言っていい気がするのですが……


バッハ いや、作曲をしていた頃は、世間がわたしを認めてくれていたわけではありませんでした。

世人はおよそ新しいものには懐疑的で、新しい変化を受け入れる傾向にはないものです。

認められずとも一定の作曲手法の確立はさせたかったですし、カンタータなどの合唱曲、器楽曲、室内楽曲、協奏曲、管弦楽曲などの幅広い作品を送り出したかっただけなのです。

生きているうちは演奏の機会はあるにはあったのですが、結局、日の目を見ることはなかったのが現状です。

わたしが1750年に亡くなって以降は、どうもわたしの作品は忘れ去られてしまったようでした。

50年、60年と経っても作品が演奏される機会はなく、息子たちの名は受け継がれたようでしたが、そのままフェードアウトしていくように思われました。

ところが、確か1829年のことだったと思いますが、後世の作曲家メンデルスゾーンが20歳の若さにして、わたしの「マタイ受難曲」を時代に見合った検証を行うとともに、聴衆に受入れてもらうためにあらためて構成を見直したうえで再演をしたという話は大変有名です。

当時からすればバロック時代の音楽はいささか時代にそぐわない音楽ではありましたから、わたしの音楽は完全に忘れ去られていたのです。

そこでの成功に乗じてその後、他の演奏家がこの曲を取り上げることになります。

このメンデルスゾーンの大業に端を発して世に出ることができたのだと実感しました。


 せっかくですので、あなたの曲を何曲か挙げていただき、特徴や演奏方法について少々解説していただけないでしょうか。


バッハ 音楽を純粋に捉え、屈託のない精神で演奏していただければ、それは豊かで快い音が奏でられるはずです。

譜面をジッと見て曲全体の構想をしっかりと捉えてください。

全体がつかめれば、あとは一生懸命練習に励むことです。

弾けるようになれば、敬虔な心と素直な気持ちで聴き手は聴いてくれることでしょう。

音楽は繊細な性格を帯びています。

そう、わたしもそれほど大胆なことは好みませんし、穏やかな環境で作曲はしていましたから―。

いや、もっぱら多岐にわたる仕事の数々は作曲も含めて長時間にわたっていましたけども、充実はしていました。宗教とは切り離せない環境にいましたから、それらを含めわたしの音楽は自分の思想とが結合した魂の叫びなのです。
 およそ1,000曲のわたしの曲で何をここで取り上げるかは本人でも迷うところがあります。

―そうですね、聴いていただきたい曲をあげるとするならば、平均律クラヴィーア曲集第一巻、第二巻全曲、ブランデンブルグ協奏曲第5番、コーヒーカンタータといったところでしょうか。

 はじめの両曲集は二十四の調性からなるプレリュードとフーガで構成され、全曲通すとかなり長いものになりますが、一曲は二分程度です。

当時、クラヴィーアを学ぶ学生の習熟と愉楽を想定して書いたものですが、後妻のアンナ・マグダレーナも好んで一部を弾いていました。

日頃から平常心を心掛け、穏やかな感情がそのままわたしの作品には反映していますから、聴き手にはそのまま伝わるはずです。

弾いたり聴いたりすることで、深奥な人間の内的心情が豊かになるのだと思います。

作品の一部に極端な感情を盛り込むようなことはしていません。

どれも聴いてもらいたいのですが、どれか一つ例を挙げてみますと、17番変イ長調は非常に愛らしく、誰にでも偏見なく楽しめる作品です。

変イ長調の温かい調性感が心のやすらかさをもたらせてくれます。

一曲一曲にまったく別のモチーフを導入するようなことはありません。

それは人の耳に聴こえた時に曲の印象が薄れてしまうからです。

短めの曲でもフーガとして発展させることに徹します。17番のように愛らしく明快な旋律は感情を豊かにし、負の感情を一掃するとともに生きる喜びを実感させてくれることでしょう。

この曲集を弾くとなれば、これは音楽的な感性を養いつつ、多くの時間を要する修練が必要となります。

物事、ひとつひとつには創造されたことの意味が存在し、安易な思い込みだけでは曲を本当に弾くことの意味は得ることはできません。

指がスムーズに動くように鍛錬な練習をして、一つひとつの音符を大切に思って演奏してみてください。

 次は器楽のオリジナルに編成したブランデンブルグ協奏曲を挙げてみましょう。

ブランデンブルクの辺境伯クリスチャン・ルートヴィヒに1721年に献呈されたものですが、六曲あるうちの五番目のものについてお話します。

独奏楽器はフルートとヴァイオリン、チェンバロの三つの楽器とヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ヴィオローネで合奏を受け持ちます。

オーケストラと室内楽の中間の弦楽合奏の編成は独特の豊かな音質が楽しめるのと、比較的容易に編成できて取り組めるため、演奏機会も多いのが利点となっています。

ソロ・コンチェルトではなく、また合奏協奏曲でもない。

言ってみれば三重協奏曲ですが、他のブランデンブルク協奏曲もそれぞれ多様な編成とソロ楽器を使っていますので、他もぜひ聴いてほしいと思います。

この五番はチェンバロが大変活躍し、第一楽章の後半に長めのカデンツァを置いているのが特徴です。

バロック音楽的ではない、これからのクラシック音楽につながる未来を予兆するようなモダンなスタイルを採用しています。

わたしもこの曲のチェンバロのソロをよく受け持っていました。

フルートとヴァイオリンのソロの第一、三楽章は明るくある意味で清々しい音楽となっていますので十分に楽しめるはずです。

このブランデンブルク協奏曲を器楽の協奏曲として、オリジナルの複合協奏曲の構成が確立できたのだと思っています。

 最後に、世俗カンタータとして今でもよく知られているコーヒーカンタータをご紹介します。

当時、ライプツィヒにあったツィマーマンの経営するコーヒーハウスでは一般に広くライブが開かれていたわけですが、ここでも取り上げられました。

弦楽の伴奏にテノールの語り手、シュレドリアンとその娘のリースヒェンに扮する二人の歌い手がせめぎ合う、ちょっとした喜劇に値する作品です。

「おしゃべりはやめて、お静かに」という、ピカンダーのペンネームでクリスティアン・フードリヒ・ヘンリーツィの作詞により曲をつけています。

 父と娘のエスプリの効いたやり取りで、娘が頓智的にコーヒーを飲む権利を得ようと、ミュージカルのように活き活きと描いています。

レシタティーボと言われる朗唱を含めて全部で十の場面の音楽に仕立ててあります。

娘にコーヒーをやめさせたいがために忠告をしますが、聞き分けのない娘に父親は気を揉み始めます。

娘はコーヒーに恋焦がれるばかりにラブソングを歌いますが、食事や着たい洋服などの愉しみをすべて取り上げようと父親は脅かすも一向に動じません。

娘がなぜコーヒーをそれほど飲みたがるのかを突き止めようと、コーヒーをやめないなら結婚はさせないとまで言い切るのですが、娘はあきらめようとしません。

一旦あきらめる素振りを見せる娘に父親は娘婿を探しますが、実はコーヒーを飲ませてくれる夫でないと結婚はしないと心に誓う娘。

最後は母も祖母も飲んでいるコーヒーを誰が非難できるでしょう、というあらすじです。

二曲目の父親のアリアなどは娘が堅実に生きるのを望むが故の悩みを歌い上げますが、贅沢な悩みと印象づけるような明るいモチーフにしています。

今日ではもっとも親しまれている世俗カンタータではないでしょうか。



2 エピソードB~苦労を重ね、傑作を残した偉大な音楽家 天界の対話Ⅰ~ (了)

(3 主題A② ~芸術心の育み~ に続く)


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