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【短編】B&M ④ ~小ロンド形式による二人の作曲家のリレーション~ 4 エピソードC ~バッハを蘇生させた天才作曲家 天界の対話Ⅱ~

 〝音楽上の奇蹟〟とハインリヒ・ハイネが称した幼き時代から才能を花開かせたあなたの演奏や作曲理念は、今でも音楽界ではよく知られたお話です。

併せて幅広い教養を身に付け、音の調和のとれた詩的作品を作曲されたことについてのあなたの音楽的思想はどのようなものなのでしょうか?


メンデルスゾーン 師のカール・フリードリッヒ・ツェルター氏から多様な音楽思想を学び、おさな心に音楽の本質的なことについて考えていたことがありました。

それはやがて人間の心を潤すだけでなく、生きるための生命の浄化と高点を促すものであってほしいという想いにつながっていきます。

わたしは幼い頃から〝ユダヤ人〟であることの虐遇を被ったことによって、音楽が人へ果たす意味―人間が幸せを享受すること―を深く考えるようになったのです。

 小さい頃から音楽の愉しみに触れられたこと、作曲のほかにピアノを弾くことが何よりも大好きであり、即興的な演奏感覚も身に付けることができました。

さらに、イタリア語、ギリシャ語、ラテン語のほかに乗馬、そして絵も勉強する機会に恵まれ、バランスのよい素養が音楽精神を成熟させてくれました。

その後は楽器編成を今までにない新しいものにしたり、自身の作風をなるべく早く確立させたかったのです。


 あなたの作曲に対する美学に決定的な影響を与えた要素には、何があったのでしょうか?


メンデルスゾーン 当時のドイツ観念論を代表するヘーゲルの芸術に対する美学にも見られる、つまり一定の情調のある音楽性をわたしも好んでいたのは事実です。

ひとつの学問を学ぶことは、計り知ることのない奥深さを秘めているものです。

これは生前にもどこかで言ったことですが、例えばイギリス人と言えどもシェイクスピアをわからない人はいるわけです。

最も魅力的な場面を上演で頓着なく削除しているような事態がありました。

そんな感覚はわたしには信じられません。

これでは物事の奥深さを理解できていないことになります。

音楽について言えば、その楽曲を演奏する際に、私の生きていた当時のロマン派的な解し方よりも、時代などを背景とした作品に対し忠誠を尽くすことを第一に考えなければならないというのがわたしの解釈です。

時代の嗜好に合わせた修正・編曲などは避け、その曲の本質的な内面を探り出して引きだすことが大切なのではないでしょうか。

作曲に対しても同様です。何でも自分の眼で見て確かめて創造するようにしていました。1829年にスコットランドに出向いた旅行がなければ、《スコットランド交響曲》(交響曲第3番)や《序曲「フィンガルの洞窟》などは到底生まれることはなかったでしょう。

ですので、創造の世界はその事象の本質を見極めることが必要でありました。


 音楽だけでなく、小さい頃から他学問や美術、そして馬術など、幅広い教育を受けられたお話から、物事を見抜く力を兼ね備えられたものと想像しますが……


メンデルスゾーン 幸いにして小さい頃から学ぶことは好きで、何を学ぶにしても基本を習得しておくことの大切さを身に染みて感じていました。

アノルト・ベックリンの師であったヨハン・ヴィルヘルム・シルマーに水彩画を習ったこともあって、さまざまな画家ともお付き合いをさせていただきました。

ヴィルヘルム・シャード、カルル・フリードリヒ・レッシング、エードゥアルト・ベンデマンなどとの交流もありましたよ。

 わたしは幅広い教養を体得できたことで、思考力よりも忍耐力が身に付いたような気がしています。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番ト長調を演奏会でよく取り上げ、一時期ピアニストとしての成功を認識していたこともありました。

当時、作曲の方はと言えば、逆に《宗教改革交響曲》(交響曲第5番)は関係者から批判を受けていたことがありました。

大きなダメージが余計に創作意欲をかき立てたという、精神面での強さを持つことができたわけです。

 わたしが演奏する範囲においては、ごまかしや誤った解釈をすることは好みません。過度な表情づけは音楽の本質を損ないますし、ピアノでペダルを使いすぎるのもあまりよくないと思うのです。

洗練された演奏をすることが一番の理想と言えますから、流行や様式に左右されるようなことはわたしにおいてはすることはありませんでした。


 多彩な学びからあなたの音楽的思想は確立されたと言えるわけですね。ではあなたの仕事をしていくうえで、障害となったことは何かありましたでしょうか?


メンデルスゾーン 作曲活動のペースを削ぐような事態は、わたしの身の上に何度か起こったうえに、良くない影響を及ぼしました。

1835年11月には父のアブラハム、そして1847年5月の姉のファニーの死はその最たる出来事に挙げられるものでしょう。

自身の活動に意味があるのかわからなってしまい、悩み抜いていたところへの家族の悲劇は身体がバラバラに引きちぎれてしまう想いでした。

自分の仕事にも否定感を持つようになり、作曲をやめて数日間自然に触れて今後の創作のあり方を考えていました。

そして、ファニーへの強い想いから、激しい性格を帯びた弦楽四重奏曲へ短調作品80が誕生しました。

 仕事上の人間関係に溝が深まるようなことも多々ありました。

デュッセルドルフの町にいた時のことです。

ここは芸術の振興が大変盛んで、芸術協会が設立された年のこと。

劇場のトップは地方裁判所判事で詩人だったカルル・イマーマンという人物が握っていて、ドイツの芝居を模範的に上演し、地域に啓発する任務を負うも、展望も開けなくなってしまったことがあったのです。

彼の好意によって書かれた「テンペスト」の台本をわたしがお断りしたことを根に持たれてしまったことが原因だったのです。

ここでの「模範上演」のために、わたしはその度に長時間拘束される羽目になったことを時間の無駄と感じてしまい、さっさと仕事を引き上げて作曲に専念したのです。

日常性の仕事を押し付けられることに苦痛を感じていたわけです。

仕事や同業の好友関係でこうした小さな疑問や不満には耐えられない性格でしたので、深い関係が保てた作曲家はごく一部の優れた作曲家に限られていました。

人との相性の合わない場合は自分自身もつらくなりますから、その場合は距離を置くようにしていました。


 指揮をしたり、ピアノをあなた自身が演奏する場合、気を付けている点や音楽的な考え方を教えていただけますか?


メンデルスゾーン 思えば、指揮活動では表情や身体の動きによって演奏を理想の方向に持って行けたのは満足でした。

もたつく演奏は好きにはなれませんでしたので、比較的早いテンポで演奏をするようにしていました。

適切かつ正当性を音楽に見出したかったことは確かです。

自由気ままな演奏、伝承されている演奏指示を守らない演奏、悪ふざけなどは到底許せるものではありません。

 いつだったか、ソフォクレスの『アンティゴネ』に付随音楽を作曲した時には、この古代劇に適う音楽性を出すためには、合唱はレシタティーボ的に扱うようにしました。

そして横笛や竪琴のような古代楽器に近いフルートやハープで演奏するような劇作品に、忠実に寄り添った音楽をつけるべきだと考えたこともあります。
 人に物を教える時などでもそうです。

はっきりと簡潔に伝えることで、印象付けることを心掛けていました。

音楽を教える時は十分に生徒が納得するだけの要領を得た説明が必要ですし、それによって印象付けることが何よりも大切です。

物事に敏感でイライラしやすいわたしの性格からして、教育に携わるのは適切ではなかったかもしれません。

生徒の作品に大きな過ちを発見したときには怒鳴り散らしていたのですから……
それに一度、邪悪に思ったことはいつまでも忘れることはありませんでしたし……
わたしにのしかかる仕事の負担が不満となって他人へぶつけてしまった行為は、真面目に生きたことの反動であるとも言えましょう。

今となっては柔軟な生き方をしておけばよかったと後悔しています。


 先程、深い関係を持てた作曲家はごく一部だとおっしゃいました。あなたの生まれた年の前後では、ベルリオーズ、ショパン、シューマン、リスト、ワーグナー、ヴェルディと大作曲家が多く名を連ねています。当然に多様な関りを持たれたことと思いますが、何か思い出深いことやエピソードをお聞かせください。


メンデルスゾーン まず、ワーグナーとの関係を述べておきましょう。

お互いの作品を素晴らしいと称賛し合っていたのはどうも初めのうちだけだったようです。

わたしは彼の歌劇《さまよえるオランダ人》の上演があった時に、この作品に対しお祝いの言葉を贈りました。

そして彼はわたしのオラトリオ《聖パウロ》に賛美の言葉を返してくれたのです。

しかし、私たちの間の音楽観には大きな隔たりがありました。

最後は邪心があると疑われたのでしょうか。

わたしの死後に、『音楽におけるユダヤ性』のなかで中傷されてしまうまでに至りました。

「極めて恵まれた、独特の豊かな才能を持ち合わせ、幅広い教養と自尊心を備えるが、ユダヤ人の彼には―我々の偉大な音楽家―我々に語りかけようと口を開けたとたんに、我々が何回も感じてきたような心も魂も揺り動かす深い感動を我々にもたらすことはできない」とまでね。

 作曲家の音楽観はそれぞれ違うのは当然のことである上で批評をしてもらいたいものです。

わたしも違うと思うものは批判しますが、それが矢面に立つ場合は影響が大きくなります。 

された側の立場や物事の奥底を十分に知りつくしたうえで、批評のあり方については考えなくてはなりませんね。

 次にロベルト・シューマンとは、昼食をいっしょにするような間柄となりましたが、熱狂的に賛美されてしまうのでどうしてよいのか分からなくなっていました。

彼の創刊雑誌「音楽新報」では、好まれて褒め言葉をいただいたりしたこともありました。

これは裏を返せば、彼のその後の末路からも推測できるかもわかりませんが、精神上の懊悩が他者への讃嘆となって表出したのかもしれません。

ゲヴァントハウスのホールで《序曲〝静かな海と楽しい航海〟》、ウェーバーの《魔弾の射手》抜粋、ベートーヴェンの《交響曲第4番》他を指揮した時はこのトーンで雑誌に紹介してもらったときは、いささかあんぐりとしてしまいました。

彼には後にライプツィヒ音楽院の設立の際、ピアノと作曲の教授として着任してもらった経緯があります。

 リストとは演奏のスタイルがまるで食い違いっているところに違和感がありました。

リストの演奏会のチケットが法外な値段に吊り上がり、一般庶民からの不満を抑えきれずに彼も悩み、ホテルに引きこもってしまった時のこと。

初めのうちはヒラーやシューマンといっしょにリストを訪ね、彼の気持ちを和らげようと音楽について語り合っていました。

二回の演奏会後に落ちこんだリストを励まし、なんとかリストに立ち直ってもらって三回の演奏会を終了させました。

後でお話しするショパンと三人でピアノを通じた交流が多くありましたね。

 ベルリオーズですが、音楽的にはともに価値観の一致が見られなかったために、深いつきあいはそれほどできませんでした。

彼に対する評価は他の芸術家の批評から様々ですが、彼のオーケストレーションはスケールが大きく、全般にこまごまとしているのが特徴です。

わたしはあまり音楽の複雑性は好まず、人間の苦しみ、怨恨のような不幸だけで音楽を創造することには疑念がありました。

そこには傷ましさしか残らないではありませんか。フランス革命の推進力となったサンキュロットのような刺激の強いエキセントリックな音楽には違和感を覚えてしまうのです。

なので、あくまでも調和を求めた作品を愛しています。

 では最後にショパンです。

彼は本当に心の通じあった友人でした。よくパリの彼の家まで押しかけて、ピアノを弾いたり、食事をしたりしたことの思い出が残っていまして、彼に出会えたのは本当に幸せでした。

これほどピアノが上手い人間は他にはいないと思います。

ピアノ音楽の真の新しい領域が彼によって拓けたのは間違いありません。

一つエピソードをお話ししましょう。

協同で自分たちの作品を中心にしたピアノ演奏会を企画したことがありましたが、狭めの会場に倍以上の招待状を作成して配布したのですが、結果、来場者はまばらだったのです。

非常にショックでしたが、あとで我々の失態に気が付きました。

そう、招待状の日時が違っていたことが大きな原因だったのです。

実際はその年の12月14日だったのですが、1月14日と印刷をしてしまったことは苦々しい思い出となりました。

そういう意味では心が通じ合っていたからこそ励まし合い、尊敬もできた存在でしたから、様々な経験を経て音楽を続けられてこられたのだと今でも信じています。


 なかには思い出したくないことまで伺ってしまったようで、少し嫌な想いをされてしまったことはお詫びします。では、最後に話題を変えて、バッハのマタイ受難曲の復活をさせたことについてお伺いします。なぜ、当時忘れられていたバッハを再びよみがえらせようと思ったのか、そのあたりのいきさつと動向をお聞かせください。


メンデルスゾーン 小さなころから姉のファニーとともにバッハの音楽に親しんでいたからか、バッハの芸術に対して敬意を表していたのは事実です。

また師のカルル・フリードリヒ・ツェルター(1758―1832)が指揮を担う合唱団に入団した折に、その図書室に《マタイ受難曲》が誰にも見られないように保存されていることを知り、ますます関心が涌いてきたわけです。

「絶対に見たい」とすぐにツェルター先生に頼み込みましたが、「まだ君は見る段階ではない」とけんもほろろにあしらわれてしまう始末でした。

想いはますます募る一方で、そのことしか考えられなくなってしまったこともありました。

 当時、バッハの音楽はすでに忘れ去られようとしていて、厳格で一般には受け入れ難い存在となっていました。

うちの家系ではバッハの長男のウィルヘルム・フリーデマン・バッハにチェンバロを習っていた母方の祖母の妹ザーラ・レーヴィがいて、なおかつ次男のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハに金銭的支援をしていた事実がありました。

これをきっかけに特別視されていたメンデルスゾーン一族にも、元は合唱協会として組織されたジングアカデミーを通じて手書きの譜が入ってきたのです。

それをバッハの孫弟子にあたるツェルターに保管を依頼していたのでした。

 そして何とか《マタイ受難曲》を写譜の許諾を受けて、他の者に依頼することにして、数年にわたって曲の研究を重ねることができたわけです。

これを上演の実現をしないでは、これからの音楽界の危機も招きかねないとまで思うようになり、自分の威信をかけてこのプロジェクトを進めました。

バッハの作品に親しんでいたからこそ、これらを擁護していく必要性と使命を強く感じたのです。

実現には多くの協力者が不可欠です。

まずはファニーや歌手の友人テヴリエントとともにジングアカデミーの一部の者に働きかけ、その年の暮れの休日から試験的に自邸で演奏をしてみました。

メンバーもバッハの作品に惹かれていき、その偉大性の認識と練習へのモチベーションが徐々に高まっていったのです。

 やがてこれらは噂が噂を呼び、広がりを見せるようになりました。

上演上の困難は認識しつつも、慎重に実現の可能性について探っていきました。

オーケストラ、合唱団がそれぞれ二部とソリストがつきます。

これだけの演奏者を集められるかどうか、また全68曲で三時間程の演奏時間がかかります。

ちょうどその時、バッハ自身がこの曲を初演して来年が100年目の年でした。父のアブラハムは、

「私の父モーゼス・メンデルスゾーンの生誕百年だ。二つの記念碑的行事が重なり結構なことだ」と賛成してくれたのです。

 団員の皆さんからも実現したいという気持ちが伝わってきていました。

ツェルター先生にも相談しないわけにいきませんでしたから、この世の偉大な宗教音楽を復活させたいため、合唱団とホール使用のお許しをいただこうと説明したとたんに険しい顔で、

「何もかも課題が山積みで、扱いにくい曲を上演できるはずがない。手に余るものがある。やめておけ」と激怒されました。

「我々は先生の温かな指導でバッハの音楽に親しめるようになり、作品の偉大さを理解することができたのです。機会をぜひお与えください」

テヴリエントがツェルター先生をおだて上げ、ようやく心ならずも首を縦にふってくれました。

ただその後のことは保証してはいただけなかったですが―。

 公演は慈善を目的に行いました。

ホールも使用料はメンデルスゾーン家が負担して確保することができ、パート譜の写譜もコンサート・マスターだったエドゥアルト・リーツが無償で請け負ってくれました。

団員の人数も機運が熟し150人以上集まり、協力的な意識が生まれて準備は少しずつ整っていったのです。

ただ、演奏上の問題として三時間という長大さを維持するのは緊張感を欠くことにもなりますので困難と判断し、全六八曲のうち各レシタティーボ、アリア、コラールの十六曲を省略することにしました。

また、通奏低音をピアノでわたしが奏し、当時使われていたオーボエ・ダ・カッチャ、オーボエ・ダ・モーレのパートをクラリネットで代用したのです。

歌の音域も歌いやすいように変更を加えました。


 当時、20歳の年齢でスコアも暗譜され、適格な指示をされたことでこの公演は大成功をおさめ、以降、数回の公演を重ねた結果、バッハの評価は瞬く間に上昇しました。この音楽史上の偉業の成功の要因はどこにあったのでしょうか?


メンデルスゾーン 準備はすべてに忠実に丁寧に進められました。

粘り強く、そしていんぎんに。

後で聞いた話ですが、我々の誠実に進めた計画の成功にツェルター先生も舌を巻かれていたようでした。

100年の節目であったことも盛会に至った理由の一つで、社会の関心は飛躍的に上昇し、多くの教養人の方々がチケットを買い求めてきたのです。

おかげで告知とともに、一日足らずで完売して買えずじまいの方々に対する再演の話も持ち上がるほどでした。

その後に折り合いのよくなかった者からの妨害がありつつも何とか苦難を乗り越え、バッハの誕生日である3月21日と、その後もう一回、ツェルター先生のおぼつかなかった指揮によって、計三回の再演がされたのです。

その時は譜面を覚えずに挑んだことの結果だったようです。

 1929年3月11日、わたしが指揮をした当日はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世、王太子が訪れましたし、詩人のハインリヒ・ハイネや哲学者のゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルなども聴きに来ていました。

バッハのキリストに対する畏敬の念が多分に注がれて完成されたこの傑作は荘厳に会場に響きわたりました。

聴衆は曲の大きさ、精神的な優しさ、美しさに包み込まれ、湧きおこる感動に浸っていたことと思います。

ベルリンじゅうにこの曲の宗教的な観点から見た素晴らしさを、広く知ってもらえたことに十分満足しています。


4 エピソードC ~バッハを蘇生させた天才作曲家 天界の対話Ⅱ~ (了)

(5 主題A③ ~音楽を悦びとともに~ に続く)

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