【評論】ストラヴィンスキーの哲学的音楽観
次に掲げる文章はロシアの作曲家イーゴル・ストラヴィンスキー(1882-1971)の自伝から引用した一節である。
少し長めの文章だがご覧いただきたい。
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「戦争のニュースを読んで、愛国心がわき上った私の深い感動と、祖国からあまりにも遠く離れていることに対する悲しみの念とは、ロシア民謡詩に夢中になるよろこびによって幾分やわらげられた。
この詩に私が魅惑されたのは、時に粗野な物語でもなければ、常にあまりにも面白く思いがけない情景や比喩でもなくて、言葉と音節のつながりとそれらがつくりだす韻律であった。
それは音楽のそれに非常に似た効果を人の感性に与えるのである。
なんとなれば、私はその性質上、音楽が、感情にせよ、気持ちや心理的なムードにせよ、自然現象にせよ、“表現するということ”は音楽の固有資質から言ってありえないと私が考えるからである。
“表現”はけっして音楽という存在の目的ではない。もしほとんど常に人々が思っているように、音楽がなにものかを表現するようにみえるとすれば、それは単に幻覚であって、現実ではないのである。
それは単に、われわれが無意識に行なうかまたは慣習の力で行なう暗黙の常習的な同意によって、レッテルとしてむりやりに音楽にはりつけた付加的な属性にすぎない。
音楽は人間が現在というものを確認するための唯一の分野(手段)なのである。
人間はその天性の不完全さのため、現在という範疇に実体を与えるそのことによって安定性を与えることができないで、時間の経過、すなわち過去と未来の範疇に服従するように運命づけられている。
音楽という現象は、とりわけ“人間”と“時間”との間を結びつけ同一に調整することをふくめて、物事に秩序を与えることを唯一の目的として、われわれに与えられたものなのである。
それが具現されるさい、欠くことのできない唯一の要求は、構成(構造)である。
構成がひとたび完成されれば、この秩序は獲得されるのだ。それ以上のことを言っているわけではない。
音楽にそのほかの役割を求めても、まったく無駄であろう。
われわれの普通の感性、日常生活の印象に対する反応と共通したところのすこしもないユニークな情緒をつくりだすのはまさしくこの構成であり、この獲得された秩序なのである。
音楽の生み出す感情を定義するには、建築の形式のもつ作用・反作用の深い考察がよびおこす感情と同一なものだといってみれば、一番まとをえたことになろう。
建築は石に化した音楽だといったゲーテは、このことを完全に理解していたことになる」
《イーゴル・ストラヴィンスキー『ストラヴィンスキー自伝』より 塚谷晃弘訳、全音楽譜出版社、1981年3月25日初版発行》
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音楽とは何か。最も根底に据えられた命題を以上のようにストラヴィンスキーは換言する。
感情を奮起させる、希望と勇気を湧き起こす、気持ちを安定させる、心の支えになるなど、人によって音楽に対してイメージされることは様々であるが......
ストラヴィンスキーの場合は視点が少し違ってくる。「人間が現在を確認する唯一の手段」とは、自己の存在を意識するためのツールとして、活用されるのが音楽であると言っている。
人間の存在は外的環境に左右されやすく、自己の消滅を危惧した時に、音楽は自己を見出してくれるものだ。
また、「物事に秩序を与えるものは構造である」と言う。難しい物言いであるが、具体的に何を示しているのかは、語ってはいない。
感情を形づくるその抽象物は音楽の形式にかかわらず、普遍的な感性、情緒をつくりだし自分の外に存在する構造なのだろうか。
そうであれば、秩序を形成して導き形づくられた構成物は構造として作用していることになる。
人は外的構造から影響を受けやすいのは、見たり聞いたりする刺激の受容力が高いからである。
これを読む限り、時間に拘束されたり、押し潰されるような時に、音楽のような構造は聴く能力の強い人間にとって、有効に自己の存在を明確にしてくれる妙薬であるという例えが的を得ている気がする。