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M-1と芥川賞。多様性が担保された国の祝日の昼下がり、僕は風呂で「推し、燃ゆ」を読み終え、八朔を剥くけれど、何か?


外野から知ったような口を叩ける有象無象の一人である僕が思うに、文学賞を受賞するのに最低限必要な要素は、次の3点だろうと推測している。

①筆力……小説という形態における表現技術が卓越している。

②時代性……今という時代の社会・人間像を切り取っている。

③新規性……次の3つの要素のいずれかが斬新。

 ③-a. 舞台が新しい(一般の人があまり知らない世界を紹介する)
 ③-b. テーマの解釈が新しい(独特な解釈ながら説得力がある)
 ③-c. 表現方法が新しい(独特のモチーフや、独特なレトリック)

僕の読書量などたかが知れている。純文学に限ればもう顔をそむけたくなる。そんな僕が、誰かの受け売りではなく、僕自身の考察の結果と思い込んでいるからこそ、臆面もなくここに披露している。業界の方や、純文学ファンの皆さまに声を潜めてお願いしておく。そっとしておいてください(笑)。

2月23日天皇誕生日の昼下がり、僕は芥川賞受賞作 宇佐美りん『推し、燃ゆ』を読み終えた。すげー! これで現役大学生! その才能に舌を巻く。

『推し、燃ゆ』は、「②時代性」、「③新規性-a. 舞台が新しい」、「③新規性-b. テーマの解釈が新しい」……も優れていると思うが、なんと言っても、「①筆力」が抜群。安定感があって、とてもよかった。

何ていうか、「私はこんなバラエティーに富んだ表現技法を持っています」という、受賞候補の新人がアピってしかるべき「ひけらかし」を、鼻につくことなくその技法で書くべきところで使ってみせるのだ。ストーリーが、そのような技法を要求しており、作家がそれに「きわめて自然に」応えている印象で、嫌味がない。

しかも安定感抜群。書道で例えるなら、叢書、行書、楷書を右手でも左手でも美しく書ける、といった感じか。

「直球でぶつけてくる」魂の叫びも、はたまた「読者心理を操作し誘導する」あざとさもうかがえる。これで若冠21歳の大学生かぁ。これにいずれ円熟味が加わったらと思うと……。卓越した表現技法を持った作家が、僕なんかよりひと世代以上若い目でこの時代を切り取ってどう見せてもらえるのか、先行きが楽しみ。作品を堪能しました。ごちそうさまでした。

それにしても、芥川賞選考委員の先生方の、受賞作に対する作品評を読むにつけ、選考委員それぞれの視点がずいぶん違うことに毎回驚かされる。同じポイントについて、褒める人と、けなす人がいる。よくこれで受賞作を決められるもんだと感心する。

そして、この解釈の多様性こそが、人間の創作活動の多様性を許容する、文化的生物としての人間が持つ、不可欠なる資質であることを再認識させられるのだ。

どう考えても非の打ち所がないと思われるすばらしいYou Tube動画にも、圧倒的な「Good!」に対して、必ずゼロではない数の「Bad!」がついている。多様だ(笑)。

それでも、人は多かれ少なかれ、あるいは意識的であれ無意識的であれ、「同調圧力」の影響を受けやすい環境にいることが多いと思う。

M-1グランプリの審査員の得点にあまり大きな差がでないのは、審査員自身が持つ基準もあろうが、「観客にどれくらいウケていたか」という客観的評価も大いに斟酌され、取り込まれているからだろう。観客のリアクションを無視するわけにはいかず、主観的評価がそちらに引っ張られる「圧力」すら感じるかもしれない。

それに対して、芥川賞の選考は、ほぼ選考委員個人の主観的評価に委ねられていると信じたい(とはいえ、業界関係者の下馬評なんかも耳に入るのかな…?) 

同調バイアスがかからなければ、人の受け取り方にはこんなに差があるものなのかと毎回驚かされる。選考委員を務める、業界の内側も外側も知り尽くした、著名なプロ作家たちをしてそうなのだ。

そしてそれは別の見方をすれば、芥川賞の選考が、文学に対して、ひいては社会に対して、かたくなに誠実を保ち得ている証拠なのかもしれない。

予定調和や、権威への忖度や、コマーシャリズムを排して、文学作品を自分自身の感性で評価する。作家歴や委員を勤めた年数に関係なく自分の評価を持ち寄る。純粋に作家の力量と作品の素晴らしさだけを評価する。すると、作家の年齢が19 歳(綿矢りさ『蹴りたい背中』)だろうが、プロ作家デビューの期限の目安と一部で囁かれる35歳をはるかに超える、66歳(若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』)だろうが、75歳(黒田夏子『abさんご』)だろうが、関係なく受賞に至る。

僕はそこに芥川賞の変わらぬ健全性を見て安心し、また、言論の自由や表現の自由が認められないおちこちの国を思い、ともかくも多様性が担保されている我が国の、我が家の風呂に浸かりつつ、文芸誌を閉じた。それから傍らに置いていた好物の八朔を剥いて、ひと房を口に放り込む。濃厚な読後感が酸味に溶けて食道へと流れていく。文芸誌の表紙にうつろに目を落としたまま、僕は次のひと房を剥きにかかった。そんな、祝日の昼下がり。

最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
今神栗八


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