レビー小体型認知症の母の最期の記録②【2011/12/27】
2012/1/20
◆12月27日(火)
母がだいぶ衰弱しているのは間違いないので、年末は毎日、三姉妹の誰かが必ず病院に行こうと、だぶってもいいから、それぞれが行きたい時、行ける時に行こうと、上の姉と話し合っていた。私は二日続けて、母を見舞うつもりだった。
26日の晩、「明日は私が行くから。アンタは今日行ったんだから、明日は行かなくていいわよ」と電話口で言い張る二番目の姉に、「もう、そういう段階じゃない」と、私は言い返した。今となったらもう、義務感で行くのではない。行きたいから行くのだ。行かなかったらきっと後悔するから行くのだ。
下の姉は、時々に変化する状況を把握すること、急な変更に対応することが苦手だ。いつもと同じように、同じパターンを繰り返すことを好む。そういう脳の特性を持った人なのだから仕方ない。
27日、私はいつもより1時間早い病院の送迎バスに乗って、母の元へ向かった。少しでも長く、母の傍に居たほうがいいと思った。
母はやっぱり今日も土気色の顔をしていて、もうどこにも肉のついていない顔の、額や頬に触れるととても冷たかった。本当に母が、いよいよ死の淵に立っているのだと、思えるような気がした。
それでもどこかで、これだけ覚醒していて、これだけ何でも分かっている人間が、突然死んでしまうことはあり得ないのではないか。癌などの病気ならまだしも脳の病気であるならば、もっと意識が無くなったような状態になってはじめて、死が訪れるのではないか、そんなふうにどこかで都合良く、考えていたことも確かだ。
「今日はご自分で、点滴はしないって、おっしゃったんですよ」看護師が部屋に来て言う。母に確認してみると、目を少し大きく見開いて、頷く。
「顔が冷たいですよね」と私が言うと、「体温は普通でしたよ。今朝、お顔にローションを塗ってマッサージしたんですけど、それでお顔が冷えちゃったかしら」と、看護師は応える。看護師が本当にそう思っていたのか、母の手前そんなふうに言ってみたのかは分からないけれど、私の中の「切迫した感じ」はまだ、看護師の中にはなかったように感じた。
一時間後に、下の姉がいつもどおりのバスでやってきて、病室で妹(私)と一緒にいることが嬉しいのか、いつものように大きな声でたくさん私に話しかける。この姉の高く大きな声のおしゃべりが、寝たきりの母にとって時に酷く苦痛になっていることを私は知っている。
私はちょっと休憩に行かせてもらうことにして、下の姉を一人病室に置いて、病院の喫茶室に逃げた。母に静かな時間を提供してあげたかったことと、姉の場違いなおしゃべりから解放されたかったからだ。
甘いものが食べたくなって、私は初めて和菓子と抹茶のセットを頼んだ。喫茶室の大きな窓から覗く樹木を、私は何の感慨もなく見つめた。僅かに枯れ葉を残した樹々が、完全な裸木になる様を思い描くことも、新緑が芽吹く様を想うこともなかった。
三十分も経たずに病室に戻ると、姉は母と二人だけの時間を、静かにまったりと堪能したように見えた。席を外して良かったと、強く思った。思えばこれが、姉と母の、最後の別れだった。下の姉はいつもどおりのバスで、帰っていった。自分のペースを乱すことはできない人なのだ。
私はそのまま、母の傍に残った。
オムツ交換の時間が来て、いつもだったら席を外すのだけれど、その時私は「最後だから見ておこうかな」と、看護師と介護士の前で笑いながら言ったのだ。
少し経ってから、自分が何気なく発した言葉の残酷さに、ドキリとした。母は私の言葉を聞いていたろうか。いよいよ最期を迎える時が近づいたのだと、母は悟っただろうか。
オムツをはずした母の下半身は、身体というよりは、薄っぺらく角張った、何かの無機質な物体のように見えた。水分も固形物も摂取していないので、オムツは全く汚れていないようだった。
冷たい顔をした母の口からは、変わりなく「死臭」が漂っている。母は時々目を瞑り、うつらうつらとする。自ら点滴を拒んだのは、死期を予感していたからなのか、ついに母も自分の死を悟ったのかと、ほっとするような、でもたまらなく哀しいような、そんな想いが巡る。
背中が痛い、脇腹が痛いと、母は言う。骨を支える肉がもはやどこにもないので、どんな体勢を取ろうとも、どこかしらの骨が床に直に当たってしまうのだ。私は母の脇腹の骨の下に、しばらく掌をあてがっておく。
看護師達は体位を変えてみたり、エアマットの圧を少し下げてみたり、さらに何か工夫はないかと、細かく心を砕いてくれる。ほんとうに、有難くて頭が下がる。
午後3時半をまわって、娘が病室を訪れる。娘は11月の初めから見舞いに来ていなかった。昼夜逆転の生活を送るミュージシャンの娘は、私が家を出る直前になんとか起き出してきて、「後で行くから」と、何故かこの日だけは不思議と強い意志を見せた。
娘は約束どおり、ギターを背負ってやってきた。前々から「おばあちゃんに歌を聴かせたい」と言い続けてきたのに、ずっと叶えられずにいたのだ。
娘の姿を見て母は、「嬉しい…」と呟いた。
恥ずかしいと娘が言うので、私は病室から退出し、外で待っていた。母の好きな「夜空ノムコウ」の弾き語りを終え、もう一曲、自作の歌を唄う娘の声が、部屋の外に小さく響いた。途中から私も病室に戻り、少し開き直った娘も、室温25度の中で頬を紅潮させながら、もう二曲、自作の歌を唄った。
さっきまで、時折意識が朦朧としていたとは信じられないほど、母は両眼をしっかりと見開き、喰い入るように娘の顔を見続けている。ギターを弾きながら上下に揺れる娘の顔の動きに合わせて、母の瞳も僅かに上下に揺れ続けている。
娘が新曲を唄い終え、「どうだった?」と私が訊くと、母は震える右手を布団の中からソロリと出して見せる。母の右手はしっかりとOKサインをつくっている。「いい…!」と、母は小さく、でも力強い声で褒めてくれる。
娘の歌声を聴いて、母の中の何かが大きく揺さぶられたことは間違いないと、傍で見ていて私は確信した。娘の歌声は、想いは、母にしっかりと届いたはずだ。
「もういい。疲れた…」母はそう言って眉間を曇らせ、疲労の色を見せる。おそらく相当のエネルギーを使って、集中したのだろうと思う。でももしそのことで母の寿命が一日縮んだのだとしても、少しも悔いることはないと、その時の私は、いや今でも、自信を持って言うことができる。
肉の削げ落ちた母の顔の、両眼はくっきりと現実を見つめていて、母の意識も魂も、これ以上ないほどに覚醒しているように見える。
それから母は、「点滴をやる」と口にした。「点滴をしたほうが、ラクなの?」と私が訊くと、母は小さく頷く。私はナースコールをして、看護師に母の意思を伝えた。
今日は腹部から、ゆっくりと点滴を入れる。血管にではなく皮下注射なので、時間をかけて浸透させていく必要がある。母の場合は特に、通常の三分の一くらいの速度で行うと説明を受けた。母はこの皮下注射による点滴が嫌いだ。せっかちな母にとっては、10時間ほどもかけて行う点滴は身体に痛みはないものの、心理的に負担が大きいようだった。
「また来るね。またね」と何度も母に告げて病室を去り、私と娘は16時45分発の病院の送迎バスに乗った。外はもう、とっぷりと日が暮れていた。
駅に着き、ホームで上りの青梅線を待っていると、娘がiPhoneを母の病室に置き忘れてきたことに気づいた。私達は駅前からタクシーに乗り、病院まで戻った。病院の入り口にタクシーを止め、娘だけが急いで病室に向かった。
しばらくしてiPhoneを手にして戻ってきた娘から、病室で看護師さんと娘が会話したこと、母の病室に笑い声が響いていたことを聞いた。母の周りに温かな空気が存在していたことに、私は深く安堵した。母が今日も点滴を始めたことで、私はどこかでホッとしてもいた。点滴をしていれば死ぬことはない、そんな勘違いをしていたことも事実だ。
後から看護師達に聞いた話では、この日の夕飯は、母の好きなカレーライス。この病院では、ほとんど食べられない母にも、トレイの上に陶器の食器で、毎回綺麗に用意された食事を持ってきてくれる。母が少しでも食べる意欲を見せれば、僅か一口でも口に運んでくれる。
母はこの晩、カレーを一口、食べたのだという。そして「ちょっと、辛すぎる」と、言ったそうだ。
母が最後に別れを告げたのは、私の娘だった。普段だったら絶対に、携帯の類いを置き忘れることなどあり得ないと、娘は言う。おばあちゃんがもう一度、自分を呼び戻したのかもしれないと、娘は言う。
娘が病室を出た7時間後には、母の呼吸は止まっていた。
おそらくまだ、点滴の終わらないまま、おそらく母は、眠るように逝った。