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気持ちの良いこと悪いこと

2009/1/23
(この記事は2009年のものです)


顎関節はいったいどうなってるんだ? と疑いたくなるくらい、人間は意外なほど大きな口を開けられるものらしい。母の隣のベッドのお婆さんだ。

隣のお婆さんの口の開き方は、その時々によってもちろん変わる。
中くらいのときもあれば、母の幻覚のように、本当にウサギが口から入ってしまうんじゃないかと思うくらい、大きく開いていることもある。

枕元のテレビはスタッフがつけてくれる。そしてイヤホンを耳に入れられたまま、隣のお婆さんは口を魚のように大きく開いて、テレビに背を向けて眠っている(のだろう)。

お婆さんの耳には何が届いているのか、響いているのか、お婆さんの眼には何が映っているのか、私にはわからない。それでもお風呂から戻ってきたお婆さんの顔にスタッフは鏡を向け、「ほうら、きれいになったね。さっぱりしましたねぇ」と力強く声をかける。

私には分からなくても、長いこと介護をしているスタッフには、お婆さんの僅かな快の反応を、きちんと読み取ることができるんだと思う。素晴らしいことだと思う。

母はどんどん認知症が進行しているみたいだ。それは担当医からも宣告されていることだし、当然の成り行きだと思っている。

母は昨日どうしても、「テレビ」という言葉が思い出せなかった。
「その中に洗濯物と人形が入ってるでしょ」と言う。「(テレビの)蓋を引き出してごらん」と言う。「中に電気がついてるでしょ」

母は夜中に何度もナースコールをして、スタッフを困らせているようだ。
「私のパンティ、脱がせた?」と訊かれて、若い男性スタッフは焦ったらしい。「だって私、パンティ履いてないでしょ?」「履いてますよ。これはパンティじゃなくて、パジャマのズボン!」

などという会話が夜中に延々と繰り広げられているらしい。母の身体感覚はだいぶ狂ってきているので、履いているとか着ているとか、どれくらい着ているとかが、時々分からなくなるのだ。

そして不思議なのは、こういった会話の一部始終をことごとく母が憶えていて、私に話して聞かせる能力があるということだ。話しながら母は顔をくしゃくしゃにして笑う。

「パンティには右と左がありますでしょ?」「ありますよ。でも、これはパジャマのズボン! こっちが右でこっちが左! さあ、もう寝る!」だなんて、忙しいスタッフを困らせていることを想像すると、私も母に合わせて大笑いしてしまう。まったく他人事だと思ってか、薄情な娘だと思う。でも、深刻になったところで、どうにもならないではないか?

母には「どうしても隣に部屋があるのよ」と、病室ではなく、何か自分が所有している部屋があるという感覚がどうにも抑えられない。「おかしいなあ…。隣の部屋にある金魚鉢を、どうしてもアンタに見てほしかったんだけどなあ…」と母は残念がる。

金魚鉢の中には蛇の抜け殻と、あともうひとつ、何かが入っているらしい。

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