天井の世界
2009/5/30
(この記事は2009年のものです)
こんなに母が暗いのは、久しぶりだろうか。
母の顔は動かなくて、目はずっと天井を見つめている。唇はわずかに開いたままだ。私の話を聴きながら(耳だけは異常に良い)、時々少しだけ眉間を曇らせたりする。以前は笑ってくれたような話にも、母がちょっと不快そうに顔を歪めるので、なんだか悪いことを言ってしまったような気がしたりもする。
おそらく頬の筋肉も、口の周りの筋肉も、いろんなところの硬直が進んでいるのだろう。家族の前では気を遣わないから、母の表情は固まったまま、自分からあまり言葉も発しない。
それでも誰か他人がやってくると、母は一瞬口角を上げて、笑顔をつくろうとする。だけどそのつくり笑顔は、どこから見てもあまりにもぎこちなくて、下手くそな漫画が貼りついたみたいに見える。
「どうしてずっと天井ばっかり見てるのって、看護婦さんに訊かれるのよ。こっちは一日寝てるのよ。天井しか見ることできないじゃないのよ」顔を近づけないと聞き取れないほどの小さな声で、母は愚痴る。
久しぶりに今日は、病室にいろんなものが見える。いつも見えるのだろうけれど、あまり口にしないこともあるのだ。
天井にたくさんの蜘蛛。斜め向かいのベッドの下に3匹の猫。向いのお婆さんは、口にネズミを頬張った。それから自分の車椅子の引出し(なんてものはあるはずなく)にカセットテープが入っているだろうと言い張る。
「いつ、歩けるようになるんだろう。早く、歩きたいなぁ…」と、天井を見つめたまま無表情の、わずかに哀しそうな顔をした母が呟く。
「そうね。熱が下がった! みたいに、急には無理だよね。少しずつ、訓練していって…、だよね」私がわざとらしくそんなふうに言うと、母は瞬きをして、YESの合図をする。
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