善にも良し悪しがあるという話
災害支援の話がある度に起こっている気がする論争がある。
千羽鶴送る送らない論争だ。
ちなみに私は送らない派なのだが、今回の某国のし掛けた戦争でもこの論争が巻き起こっているようだ。
とはいえ千羽鶴を送る派の人々としても悪意をもって送ろうと思う人はいないだろうから善意からくる行動なのは理解できる。
それでもやり方を間違えれば善意はありがた迷惑に変わることもあるのだ。
災害や戦争となると経験していない人には大きすぎる話かもしれないので、もう少し身近な例で考えてみよう。
一人暮らしで風邪やインフルエンザになってしまった場合に、友達が見舞いに来てくれて何が一番嬉しいだろうか。
私はおかゆやポカリを買ってきてもらえるのが一番嬉しい。
風邪でしんどいときに自分が好きだからと手作りの唐揚げを持ってきてもらって嬉しいだろうか。
もちろん嬉しい気持ちはあるだろうが、実際困る気持ちもあると思う。
こんな状態ですら嬉しい気持ちと、困るなという気持ちが混在するのだからより切羽詰まった状況なら…と考えるのが自然だろう。
気遣いというのは自己満足ではない、その時の相手の立場や状況を考えて行うものなのだ。
自分が飢えに苦しんでいるとき、自分が一番に何を望むのかもう少し冷静に考えてからの行動でも遅くはないだろう。
勘違いしてもらっては困るので最後に補足するが、私は千羽鶴は決して無意味なものだと思ってはいない。
しかし、娯楽やエンターテインメントに心を動かされるにはそれなりの余裕がいる。
なのでもう少し落ち着いた状況になったときに送ると自分達の善意が伝わるのではないだろうか。