
5/12コミティア個人誌サンプル【6】
2019/5/12コミティア発行予定の個人誌サンプルその6です。5はこちら↓
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5・人形操者のナイトクルージング
腹の底から揺さぶられるようなエンジン音と、有機的な揺れ。潮の香りに入り交じるオイルの臭い。削った黒大理石みたいにつやめく、夜の波。
自分たちを包むすべてを楽しみながら、ジルドはうっとりと言った。
「これが夜釣りだったら、もっと楽しいんだけどね。よく冷えたスプマンテと、いいヴァイオリンを一本乗せて」
「釣りには違いありません。得物が金と利権なだけで。――できました」
イザイアが言い、ジルドのネクタイから骨張った手を離した。そのまま流れるように胸ポケットから鏡を取り出し、ジルドに向ける。ジルドは彼に結ばせたネクタイを確認すると、穏やかに目を細めて笑った。
町を仕切るマフィア、アバティーノ一家の若頭であるジルドは、腹心の部下であるイザイアと共に、小型漁船のキャビンに居る。色がくすみ、ところどころクッション材すらはみ出しているソファに高級スーツは馴染まない。けれどこんなのはよくあることだ。
びしっと決めて汚れ仕事に精を出す。それがマフィアだ。
「僕が思うに、イザイアの物言いは客観的っていうより、ちょっと自虐的なんだよね。ひょっとして、まだ警官に戻りたい?」
キャビンに灯る古びた電灯に美しい銀髪を光らせ、ジルドが微笑む。
イザイアは感情の欠片も見えない冷たい瞳で彼を見下ろすと、慇懃に言った。
「警察は腐っています。この街の警官の半分はあなたたちから金を貰い、残りの半分はあなたたちから金をもらう価値もない間抜けだ。何もできませんよ、警察には」
「改めて君に言われると、悲しいくらいの腐敗の構図だ。だけどこの街では、もう長いことそうなんだよ。多分千年も昔、円環大帝国の一部だったころからね。
僕らアバティーノ一族は、ウィルトスのマフィアの中でも少し特殊だ。古く遡ればこの辺りの地方豪族なんだよね。強い武力を持ち続け、帝国中央から派遣された衛兵を追い返し続けた。今じゃこういう形だけど、ここの王様が僕らなのは変わらない。ここの正義を決めるのは父さんで、警察は正義を行う気はない。ただ、やり過ごそうとしているだけ。この町の日常ってやつをね」
ジルドの声はどこか歌うようだった。手触りのいい、美しい声。
器用そうな指が、高級スーツ地に包まれた膝を、たん、たたん、と叩く。ピアノを弾くかのような所作。彼にはマフィアというものにまつわる暴力の気配がない。気ままな音楽家か、裕福な家の自由な三男坊か、そんな雰囲気の男だ。
だからこそ、彼は好かれる。
マフィアの長男という点を差し置いても、彼と近づきになりたい人間は恐ろしく多い。男も、女も、老人も、子供も、誰も気づけばがうっとりと彼を見つめ、彼の隣にいることに興奮する。
――そう、腹心のイザイア以外は。
イザイアは酷薄な瞳で、じっとジルドを見下ろして言う。
「力がなければ何も出来ない。正義も、悪も。力を手に入れた後に何をやるかは、その人間の意思による。そう言ってわたしを誘ったのは、あなたです」
「正しいだろう?」
「そうですね。あなたはいつも反論を許さないほどに正しい」
「含みを感じるな。ピンを刺してくれるかい」
ジルドはキャビンの窓から夜の海を眺めて言い、指先で自分のネクタイを押さえた。
一見音楽家の指だが、よく見ると多少荒れている。
イザイアは上着の内ポケットから、小さなケースを取り出して蓋を開いた。赤い布を張った内部には、銀色のタイピンが入っている。クリップ状のものではなく、尖ったピンをネクタイに刺すタイプのものだ。ひとに刺すのは緊張する。
ジルドはイザイアの緊張を感じ取ってか、ますます嬉しそうに言った。
「君は、この街の警官なのが不思議な男だった。まったく不思議すぎたよ。あの平和主義の親父が、イザイアだけは殺そう、って言ったくらいだからね」
タイピンがジルドのタイに触れる寸前で、イザイアはわずかに手を止める。
漁船の船体を洗う絶え間ない水音が、彼に忘れられない雨の日を思い出させる。
硝煙。
石畳に溜まった水たまりの上に倒れたときの、歪んだ視界。駆け寄ってくる複数の足音。古傷のある背中が、針を刺されたかのようにちくりと痛む。
「実際、殺そうとしたでしょう」
「父さんがね」
ジルドはこともなげに言った。
イザイアがジルドに仕えることになったのは、五年ほど前のこと。
イザイアはウィルトス北部の生まれだ。黒髪なのがその証拠とも言える。彼は国立大学をトップで卒業し、北にある首都警察でエリートコースを歩むはずだった。しかし彼の極端な正義感はあちこちで摩擦を起こし、国内でも治安の悪い南部、よりによってほぼマフィアの自治区となっている、このコローナへの転勤が決まったのだ。
二十代後半でコローナの警察署長となった彼は、それでも諦めなかった。
マフィアへの監視を強め、警察内で賄賂を貰っている者のリストアップを始め、積極的に町に出て住民と交流を図り、強く正しい警察をアピールしようとした。
彼のやりようはもちろんアバティーノ一家に目をつけられ、それまで数年まっさらだった『処刑者リスト』のトップに、燦然とイザイアの名が輝いた。
ある雨の日、古い友人に呼び出されて夕食に赴いた帰り、イザイアは珍しくボディーガードもつけずにひとりきりで歩いていた。路地裏から物騒な物音が聞こえ、のぞくと若者たちのリンチの現場だった。マフィアにも入れないような、半端なチンピラたちだ。
通り過ぎてもよかったが、耳元で正義感が囁いた。ここで通り過ぎて、何が正義の警察署長だ。戦え。潰せ。力こそ正義。イザイアはたったひとりで彼らに割って入った。
チンピラどもは粋がったが、イザイアが不意打ちでひとりを壁に叩きつけ、額を割った時点で全員逃げ腰になった。拍子抜けするほどの弱さに、イザイアは呆れた。
リンチされているのは女か、子供か。
こんな奴らにやられるなんて、とんだ軟弱野郎だ。
――大丈夫か。
呆れた気分のまま、イザイアはぞんざいに声をかけた。
路地裏のゴミための中から、ふらりと綺麗な腕が伸びてくる。袖をつかまれてぎょっとした。汚れるからとか、そんな理由ではない。
彼の手が繊細過ぎて。
――あなたこそ。無事でよかった。
かすれてはいるが、これまた妙にいい声で言って、リンチの被害者が顔を上げた。
これまたぎょっとするような綺麗な顔の中で、緑色の目が柔らかに光っている。宝石のような。もしくは真夏の凪いだ海のような瞳だ。
雨はまだ降っていた。全身濡れ鼠になりながら、イザイアは夢の中にいる心地だった。夢から覚めたい一心で、冷たい声を出した。
――頭でも打ったのか。わたしより自分の心配をしろ。なんであんな奴らにやられた。
――欲しいものがあって、仕方なくさ。……僕を、ばかにしているのかい?
――少しな。
即答したが、本心とも限らなかった。顔を見るまでは確かにばかにしていた。
顔を見てしまった今は、ひたすらに不思議に思っている。
相手はいかにも優しげな美男子だが、妙に堂々としている。ゴミためにぐったりと横になってさえ、自信をなくしてはいないように見える。その証拠に、彼はイザイアの目を真っ向から見つめた。
強面、冷徹、氷で出来た男。そう呼ばれるイザイアの目を臆することなくのぞき、彼は言った。
――君はいい奴だ。でも、根っからの善人でもない。プライドが高くて、いつも何かに怒っている。理不尽とか、そういうものに。君は立派な主人が欲しくてたまらない犬で、めぼしい主人が見当たらないから、善とか正義を主にすえているだけだ。……どう?
どう、も何もない。初対面で犬呼ばわりされたのなんか初めてで、さすがに少しばかり不快だった。この不快感はおそらく、図星を突かれたせいだと思った。
――わたしが犬なら、ゴミ以下のガキに殴られてゴミためで寝てるお前はなんだ?
イザイアは意識して冷たい目をし、彼の手を振り払いながら言う。
彼はいったん手を離して笑い、告げた。
――君の主だ。
何か返そうと口を開けた。
次の瞬間、彼はイザイアの腕を掴んで、強く引いた。
不意を突かれて前のめりになった直後、乾いた銃声が響いた。
背中の、左肩辺りに衝撃。ぶん殴られたような感覚で、イザイアはそのまま被害者のほうへ倒れこむ。ゴミで汚れ、雨に濡れた被害者のシャツが鼻先にあった。濡れたシャツ一枚の向こうには、生々しい体温があった。
背中が焼けるように痛み出し、呼吸がやけに熱かった。吸って、吐いて、そのたびに背中が濡れた。
撃たれた。
今日まであんなに気をつけていたのに、油断した。
複数の足音が近づいてくる。
――イザイア・タレル?
いかにも嫌そうに誰かが名を呼んでくる。そうだ、と言おうにも、唇が痙攣する。
きっと、アバティーノの奴らだ。イザイアをイザイアと知ってためらわず撃ち、みじんも動揺しない。筋金入りのマフィア。ずっとイザイアを狙っていた奴らだ。
とにかく、目の前の男を逃がさなくてはならなかった。
彼は無関係なのだ。
そしておそらく、ここで死んではならない男なのだ。
イザイアは石畳の上で震えている自分の手を、どうにか身体に引き寄せて、被害者のシャツを掴んだ。
――逃げろ。
一言が精一杯だった。
ここは袋小路だ。あんなよわっちい奴らにやられる男では、無理かもしれない。
案の定被害者は動かない。イザイアの肩をそっとつかみ、声をあげる。
歩み寄ってきたマフィアたちに向かって。
――そう、君は、イザイア・タレルだ。僕は、誰だと思う。
――なんだ? ん……え、あ……あなた、は。
相手の声はすぐに動揺し、震えすら帯びた。
石畳に溜まった雨水を跳ね返して、マフィアどもが駆け寄ってくる。
――ジルドさん! こんなところで何をなさってるんです。
――まさか、その警察の狗に何かされたってんじゃねえでしょうね。
彼らは本気で心配そうに言い、イザイアを……いや、違う、リンチの被害者を囲んだ。皆が手を出して彼を助けようとしていた。イザイアはそれをぼんやりと見ていた。
頭が回らない。ジルド。誰の名前だったっけ? 知っている名だ。この街に来る前に、頭にたたき込んだ名だ。
――何か? この正義の男が、僕に何をするって? 何かをしたのは、お前らだろう。
ジルドは軽やかに笑って、血まみれのイザイアを抱き寄せた。彼の温かみが嬉しくて、イザイアは逆らわなかった。逆らいたくても、体は動かなかった。
ジルドは続ける。
――僕はさっき、僕の顔も知らないようなチンピラに襲われたんだ。それをこのイザイアが助けてくれた。彼は命の恩人だ。
――本当ですか? その、それは、大変なことで……
――あのチンピラ、まさかお前たちの配下じゃないだろうね。
ジルドの声は凍えていた。イザイアは耳がつんと解凍しかけの凍傷みたいな痛みを発した気がした。
当時、朦朧とした意識の中ではよくわからなかったが、ジルドを襲ったチンピラどもは、言ってみればアバティーノの下請けだった。イザイア暗殺を申しつけられたアバティーノ一家の殺し屋が、イザイアを殺した真犯人に仕立てるために雇っていた。その質があまりよろしくなく、街の治安はかなり悪化していた。
ジルドに問われたマフィアは、うろたえて言う。
――そんな、まさか。
――だよね。君の配下が僕をリンチしたなんて言ったら、君は父さんに殺される。君が僕の恩人を撃ったのも酷い話だけれど、まあ、イザイアを殺すのは、命令だったものね。 ――ええ、ええ。命令でした。お父上の……レナート・アバティーノの。
救われたかのような、マフィアの声。
イザイアは痛みでぼんやりした頭で、どうにか考えている。
これは罠だったのだ。マフィアの親分の? 殺し屋の?
いや、違う。
――だったら父さんには僕が話をつける。きっとわかってくれるさ。このひとは、僕の恩人なんだ。アバティーノ一家は、けっして恩を忘れない。
ジルドは力ある声で言ったあと、緑の目でイザイアの顔をのぞきこんできた。綺麗な目がキラキラと光っていた。少女みたいな唇が微笑み、静かに囁く。
――彼を僕のものにするよ。
言葉が心臓にこまれるようだった。
その言葉で、声で、瞳の色で、はっきりとわかった。
自分はジルドの罠にかかったのだ。ジルドは父親の命令も、殺し屋の仕事も、全部わかったうえで、あえて自分からチンピラたちに殴られ、イザイアを引き寄せた。イザイア自身には怪我を負わせて、弱らせて、恩を着せて自分の要求を呑ませ、父や組織に対しては『恩人』という大義名分でイザイアを受け入れさせた。ついでに、態度の悪いチンピラどもをあぶり出して街から追い出しもした。
そうして五年後。
実際、ジルドは今、イザイアの横に居る。
イザイアはジルドのネクタイを押さえ、慎重にピンを突きさしながら言う。
「なぜ、わたしを欲しがったのです?」
「有能だったから。僕は有能な人間が好きだよ」
ジルドは今日も穏やかだ。彼が人材好きなのは確かなことだが、イザイアはそこまで自分を信頼できない。ジルドの執念と大胆さには感心したし、趣味や外見、物腰や行動は好ましい。それでも、他の人間ほど、ジルドに心酔する気にはなれない。イザイアの性格の問題でもあるし、出会いの最悪さもあるだろう。
「わたしが裏切るとは考えませんでしたか」
「そのピン、心臓まで届くかな?」
イザイアの問いに、ジルドはしれっと答えた。
ピンを刺す手が一瞬冷えた気がしたが、イザイアは眉ひとつ動かさずにピンを刺し、ジルドの向かいのソファに座る。
「いつか殺されるかもしれない、それが楽しいとでも?」
「そんな感じかもしれないね。君はとっても面白い。僕のことが嫌いだし」
にこにこして言うジルドに、イザイアは軽くため息を吐いた。
ジルドはそんな彼を嬉しそうに眺めて、ふとキャビンの隅を見やる。
「ね、イザイアは面白いよね、ニーノ?」
「は、はい……」
か細い声で答えたのは、ひょろりとした長身の眼鏡の男だ。歳はジルドよりは上だろうに、やけにおどおどしている。格好もスーツではなく、地味なパーカーにジーンズだった。
イザイアは冷たい視線をニーノに向ける。
「面白いか」
「い、いいえ!」
小動物のごとく首をすくめ、震え出すニーノ。見ているだけで苛立つ存在だが、ジルドは彼にも変わらぬ笑顔を向ける。もっとも、投げる言葉はさすがに皮肉げだ。
「はっきりしないね。医者っていうのは、それでどうにかなるものなのかな? ひとの命を預かる仕事だろうに」
「医者じゃなくて、闇医者ですよ。そうだな、ニーノ」
侮蔑の籠もったイザイアの言いように、ニーノは震えながら、視線を宙にさまよわせた。
「は、はい、いいえ、その、やりたくて闇医者をやっているわけでは……」
いちいちはっきりしない物言いだった。イザイアは反射的に皮肉を言いたくなる唇をどうにか引き締め、せいぜい冷たい空気を漂わせるに留める。正直うんざりする相手ではあるが、ニーノもジルドが選んだ人材のひとりだ。
自称『人間好き』のジルドは、綺麗に足を組んでニーノに訊ねる。
「待遇が不満? 充分支払っているはずだけど。イザイアの治療のときも、今回もね」
「はい、はい、もらってます、でも、その、僕は、早く家に帰していただきたいな、って……思って……駄目ですかね?」
まだそんなことを言ってきょろきょろ出来る辺り、謎な男だ。
イザイアは労力を惜しんで黙りこみ、ジルドはふらりと視線を窓に流して言う。
「どこだって住めば天国って言うよ。ニーノはエリオたちを見習うといい」
「あれはものになりますか」
急に出てきたエリオの名に、イザイアが反応する。
エリオとその兄貴分のルカは、今、この漁船の甲板にいる。初仕事に備えているのだ。
「なるよ。今はまだ、スーツが似合ってないけれどね。あれは、きっとなんにでもなる。羽が生えてるんだ。可能性の羽。ああいうのが本当の天使なんだろうな。羨ましいよ」
ジルドの言いように、イザイアはふと眉をひそめた。
この、金にも能力にも恵まれたマフィアの御曹司が『羨ましい』などと言うのを、イザイアは初めて聞いたのだ。
【続く】
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