『マルコの世界』 あとがき
目下、わたくしどもが読み進めている1冊は、こちらになります。
前回は、本書「まえがき」をご紹介させて頂きました。
今回は、本書の「序論」「本論」「補論」を、後回しに、巻末の「あとがき」に目を転じたいと思います。
さっそく、引用から入ります。
上記、文章を読むと、なにやら「イエス主義」と「パウロ主義」なる言葉が並立列挙され、各々が、何やら異なる特質を帯びているような気もしてくるが、これはキリスト者(クリスチャン)である「わたし」の主観だが、外観としての、総体としての、宗教としての「キリスト教」か、各人によって「生きられる」信仰のキリストか…の違いのように思われてならない。
わたしは他の方々の信仰までは気遣う余裕はないが、自分自身に限って云えば、キリストに「出会って」いるので、結果として、キリスト教徒になったのだし、もし、その過程を通っていなければ、わたしはキリストの御名によって「アーメン(そうあれかし)」と、何ひとつたりとも、唱えることができなくなってしまう…つまり、キリスト教徒でなくなってしまうという、危機的状況に、信仰生活上は陥ることになる訳で、それが現時点においてないのは、概念的に「パウロ主義」か?はたまた「イエス主義」か?という、知的了解の上に基づき、築かれた知の総体のようなものに支えられた「信仰」ではなく、ただ、単純に、復活のイエスを、現在進行形で確信しているからに過ぎない。
「キリストは、います。キリストは、生きています。」
まだ洗礼希望者にも名を連ねていなかった頃、教会の「キリスト教入門講座」において、キリストの「復活」について、遠くドイツから、この日本に故地を捨てて渡ってきたイエズス会宣教師、リーゼンフーバー司祭から放たれた「矢」のような言葉に、わたしの魂は射貫かれたのでした。
「キリストは、いるんだ!キリストは、生きているんだ!」
その時を契機として、復活のイエスは、わたしにとっては「現実」のものとなり、神の臨在(りんざい、つねにそばにいらっしゃること)は、その時を境(さかい)として、今現在も、継続しています。
もう、イエスは、この世に、来ています。
そして、マルコ福音書1章1節、冒頭にあるように、
「神の子イエス・キリストの福音(ふくいん)のはじまり」
(マルコ1.1、フランシスコ会訳)
イエスが、この地上に来ている以上、福音(ふくいん)は、もうはじまっているのです。
その「福音(ふくいん)」(※ギリシア語で「エウアンゲリオン」、「善い知らせ」という意味)は、マルコ福音書のうちに、あります。
現在、1,800文字なので、こちらの『マルコの世界』‐イエス主義の源流‐を、今後、どのように読み進めてゆくか?について、ご説明したいと思います。
本書は「まえがき」に続いて[序論]という章立てがあり、その題名が「マルコをどう読むのか」となっており、3つの章から成り立っています。
歴史的状況
基本的正確
全体的構成
この[序論]の内容が、若干、学術的と申しましょうか、込み入った、小難しい内容となっており、19ページ~56ページ(37ページ分)の分量があるのですが、この部分を、秩序立てて各章ごとに要約するのではなく、適宜、必要箇所を引用させて頂くことで済ませたく思っております。
なので、限界では[序論]マルコをどう読むのかは、事前の見取り図がない状態で、次回より、章立てには縛られず、進めさせて頂きます。
以上、今回は、本書『マルコの世界』‐イエス主義の源流‐の「あとがき」から、お話をさせて頂きました。
それでは、皆さま、ごきげんよう、お元気で。
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