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『マルコの世界』 あとがき

目下、わたくしどもが読み進めている1冊は、こちらになります。

前回は、本書「まえがき」をご紹介させて頂きました。

今回は、本書の「序論」「本論」「補論」を、後回しに、巻末の「あとがき」に目を転じたいと思います。

さっそく、引用から入ります。

この十数年間、ずっとマルコのことを追い求めてきたことになる。そのテキストを深く読めば読むほど、マルコという人間のスケールの大きさとものすごさにますます圧倒されるようになってきた。マルコは、現代の「キリスト教」や「教会」に対しても、真っ正面から激しくチャレンジしている。新しい世紀を迎えて、今こそ「新しいぶどう酒を新しい革袋に!」(2・22)入れるべき時なのである。「イエスに従え!」というマルコの叫びに耳を傾け、マルコに源流を発する「イエス主義」の大きな流れに今こそ目をとめるべき時なのであろう。そこには汲めども尽きせぬ清水がこんこんと湧き出ている。

 キリスト教2,000年の歴史は、パウロ、アウグスティヌス、ルター、カール・バルトという神学者たちと共にあった。人はそれを「パウロ主義」と呼ぶ。しかしながら、そこにはもう一つの地下水脈が絶えず流れていた。すなわち、アッシジのフランチェスコ、フランシスコ・ザビエル、マザー・テレサという名前によって象徴される「イエス主義」という流れである。もちろん彼らだけがイエス主義者であったのではない。「キリスト教」や「教会」という枠をはるかに超えて、無数の人日がイエスのように生きてきたのであり、また現在でも、そのように生きている。イエス主義の道はあらゆる時代のあらゆる人間に常に開かれている。

 「イエス主義」という言葉には、キリスト教会内部からさまざまな否定的反応や批判が投げつけられるにちがいない。しかしながら、イエスを愛し、イエスのように生きることこそが、すべてのキリスト教徒たるもののもっとも本来的なあり方ではないのか。むしろそれこそがキリスト教の本流となるべきではないのか。最初の情熱的なイエス主義者であるマルコは、キリスト教の歴史を貫いてきた根本問題を懸命に問うているのである。

『マルコの世界』‐イエス主義の源流‐ あとがき より引用

上記、文章を読むと、なにやら「イエス主義」と「パウロ主義」なる言葉が並立列挙され、各々が、何やら異なる特質を帯びているような気もしてくるが、これはキリスト者(クリスチャン)である「わたし」の主観だが、外観としての、総体としての、宗教としての「キリスト教」か、各人によって「生きられる」信仰のキリストか…の違いのように思われてならない。

わたしは他の方々の信仰までは気遣う余裕はないが、自分自身に限って云えば、キリストに「出会って」いるので、結果として、キリスト教徒になったのだし、もし、その過程を通っていなければ、わたしはキリストの御名によって「アーメン(そうあれかし)」と、何ひとつたりとも、唱えることができなくなってしまう…つまり、キリスト教徒でなくなってしまうという、危機的状況に、信仰生活上は陥ることになる訳で、それが現時点においてないのは、概念的に「パウロ主義」か?はたまた「イエス主義」か?という、知的了解の上に基づき、築かれた知の総体のようなものに支えられた「信仰」ではなく、ただ、単純に、復活のイエスを、現在進行形で確信しているからに過ぎない。

「キリストは、います。キリストは、生きています。」

まだ洗礼希望者にも名を連ねていなかった頃、教会の「キリスト教入門講座」において、キリストの「復活」について、遠くドイツから、この日本に故地を捨てて渡ってきたイエズス会宣教師、リーゼンフーバー司祭から放たれた「矢」のような言葉に、わたしの魂は射貫かれたのでした。

「キリストは、いるんだ!キリストは、生きているんだ!」

その時を契機として、復活のイエスは、わたしにとっては「現実」のものとなり、神の臨在(りんざい、つねにそばにいらっしゃること)は、その時を境(さかい)として、今現在も、継続しています。

もう、イエスは、この世に、来ています。

そして、マルコ福音書1章1節、冒頭にあるように、

「神の子イエス・キリストの福音(ふくいん)のはじまり」
 (マルコ1.1、フランシスコ会訳)

イエスが、この地上に来ている以上、福音(ふくいん)は、もうはじまっているのです。

その「福音(ふくいん)」(※ギリシア語で「エウアンゲリオン」、「善い知らせ」という意味)は、マルコ福音書のうちに、あります。

現在、1,800文字なので、こちらの『マルコの世界』‐イエス主義の源流‐を、今後、どのように読み進めてゆくか?について、ご説明したいと思います。

本書は「まえがき」に続いて[序論]という章立てがあり、その題名が「マルコをどう読むのか」となっており、3つの章から成り立っています。

  1. 歴史的状況

  2. 基本的正確

  3. 全体的構成

この[序論]の内容が、若干、学術的と申しましょうか、込み入った、小難しい内容となっており、19ページ~56ページ(37ページ分)の分量があるのですが、この部分を、秩序立てて各章ごとに要約するのではなく、適宜、必要箇所を引用させて頂くことで済ませたく思っております。

なので、限界では[序論]マルコをどう読むのかは、事前の見取り図がない状態で、次回より、章立てには縛られず、進めさせて頂きます。

以上、今回は、本書『マルコの世界』‐イエス主義の源流‐の「あとがき」から、お話をさせて頂きました。

それでは、皆さま、ごきげんよう、お元気で。

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