巻末の年表
本書の巻末には「年表」があり、アウグスティヌスの人生(354-430)までの、かなり細かく記述された内容のものが見つかりました。
本書『告白録』(キリスト教古典叢書、教文館、宮谷宣史訳)は、2012年2月29日が初版発行であり、訳者の宮谷氏は2015年10月15日に79歳で逝去していらっしゃるので、この本が世に出た頃には、訳者は晩年だったということになります。
それを思うと、細かく、アウグスティヌスの出来事を追った年表を配した理由が、読者の益になるため...というよりも、訳者が、まるで、アウグスティヌスを愛おしむかのように…まるで昔の親友、その足跡を追いかけるかのように…わたしの「気のせい」でしょうか…訳者である宮谷氏の「心情」のようなものを、この「年表」という仕事に垣間見たのです。
そうでも理解しなければ、このような「年表」は『告白録』には似つかわしくなく、やはり、どこか訳者の「伊達」「酔狂」の領域のような気がするのでございます。
とにもかくにも、小生は、この「年表」を、そのまま「note」に書き写すことにしてみることに致しました。
これが『告白録』という1冊に、わざわざ必要だったのか?は、読者である皆さまの、ご判断に委ねたく存じます...。
年表
354年 北アフリカのタガステに生まれる
365年 11歳 隣町マダウラの学校に通う
369年 16歳 カルタゴに移り、学校に通う
371年 17歳 父、タガステにて死す
372年 18歳 ある女性と同棲生活に入る
373年 19歳 キケロの『ホルテンシウス』を読み、愛知の心燃え立つ
マニ教徒となる
同棲していた女性との間に息子アダオダトゥス生まれる
374年 20歳 カルタゴからタガステに戻り、文法の教師となる
376年 22歳 友人の死
タガステからカルタゴへ移り、修辞学教師として働く
377年 23歳 カルタゴで詩作のコンクールに参加し優勝する
380年 26歳 最初の著作『美と適合』を発表
382年 28歳 夏、マニ教の教師ファウストゥスと会う
383年 29歳 カルタゴよりローマに行き、修辞学教師として働く
ローマで新アカデミア派の懐疑主義にひかれる
384年 30歳 秋、ミラノ公立学校の修辞学教師に選任され、ローマよりミ
ラノに向かう
アンブロシウスに会う
385年 31歳 晩春、母モニカ、ミラノに来る
皇帝ヴァレンティヌス2世に頌詞を捧げる
婚約
長年同棲していた女性と離別
皇太后ユスティナおよびその一派によるミラノの教会迫害事
件がおこる
386年 32歳 新プラトン主義の書物を読み、またアンブロシウスの説教を
聞き、大きな影響を受ける
シンプリキアヌスとの対話
8月、ポンティキアヌスの訪問を受ける
8月、ミラノの庭園で回心
秋、胸を患い、修辞学教師を辞任しミラノの北方カッシキア
クムに移り、共同生活を営む。
初期対話篇『アカデミア派批判』『幸福な生活』
387年 33歳 春、ミラノへ戻り受洗準備
4月24日、復活祭の夜、受洗
夏、ローマ経由でオスティアへ、同地で母モニカ死す
再度ローマに戻り滞在、『魂の不滅』を書く
『音楽論』を書き始める
388年 34歳 8~9月、カルタゴ経由でタガステに帰省。
共同生活を始める。
『魂の偉大さ』を記す
『カトリック教会の道徳とマニ教徒の道徳』『自由意志論』
『マニ教徒に対する創世記論』『教師論』を書き始める
390年 36歳 ネプリディウスを訪問。カルタゴへ旅。
息子アダオダトゥスと友人ネプリディウス死去
『真の宗教』を著す。
391年 37年 春、ヒッポを訪問。突如として司祭就任を要請される。
『信じることの効用』『二つの魂‐マニ教に対して』を書き始
める
392年 38歳 8月28~29日、ヒッポでマニ教徒フォルトゥナトゥスとの公
開討論。『マニ教徒フォルトゥナトゥスとの公開討論』を公
表。
393年 39歳 10月8日ヒッポにて平和会堂献堂式を行う。
12月3日、第1回ヒッポ会議で説教をする。ドナトゥス派との
論争が始まる。
『信仰と信条』を著す。
394年 40歳 『主の山上の説教』『ドナトゥス派批判の歌』『マニの弟子
アディマントゥス批判』『ガラテア書講解』『未完のロマ書
講解』を著す。
395年 41歳 5~6月、ヒッポ教会司教に叙階される。
フォルトゥナトゥスと再び論争。
ヌミディアのトゥプリシク、キルタ、テイアバへ旅行
『虚言について』『節度について』を著す。
396年 42歳 ヒッポの司教ヴァレリウスの死後、その後継者となる。
ドナトゥス派の司教ホルティウスとの公開討論、『シンプリ
キアヌスへの返書-諸種の問題について』を著す。
397年 43歳 4月4日、アンブロシウス死す。後任はシンプリキアヌス。
4月26日の第2回カルタゴ会議、8月28日の第3回カルタゴ会
議に出席
398年 44歳 マニ教徒フェリクスとの公開討論
『マニ教徒フェリクス批判』発表
399年 45歳 4月27日、第4回カルタゴ会議出席
『善の本性』『初心者の教導』を書き始める。
400年 46歳 『洗礼論-ドナトゥス派に対して』『マニ教徒ファウストゥ
ス批判』『福音書記者の一致』『パルメニアヌスの手紙批
判』を著す。
『三位一体論』を書き始める。
『告白録』完成
401年 47再 6月15日の第5回カルタゴ会議、9月13日の第6回カルタゴ会
議に出席
『結婚の善』『聖なる処女性について』を著す。
『創世記逐語講解』を書き始める
402年 48歳 シンプリキアヌス死す
8月7日、ミレヴァで第7回教会会議に出席
403年 49歳 8月25日、カルタゴ会議出席、カルタゴのドナトゥス派の司
教プリニアヌスと論争
404年 50歳 6月26日、第9回カルタゴ会議出席、皇帝にドナティスト問題
介入を要請。
ヒエロニムス、ラテン語訳聖書『ウルガタ』完成
405年 51歳 8月23日、第10回カルタゴ会議出席。ドナトゥス派文法学者
クレスコニウスと論争。
『ドナトゥス派の文法学者クレスコニウスに対して』を書き
始める
407年 53歳 6月末、トゥプルシクでの第11回教会会議出席、ドナトゥス
派に対する皇帝の政治介入を支持。
『悪例の予言』を書き始める
408年 54歳 6月16日の第12回カルタゴ会議、10月13日の第13回カルタゴ
会議に出席
409年 55歳 6月15日、第14回カルタゴ会議出席
ヒッポ近郊でドナティスト争乱
410年 56年 6月14日、第15回カルタゴ会議出席
9月11日、ウティカへ。冬ヒッポ郊外で休養。
ローマ却掠
411年 57歳 1~3月、カルタゴで説教
4~6月、キルタおよびカルタゴにてドナトゥス派に説教
6月1日、ドナトゥス派との会議に出席
412年 58歳 1月、ドナトゥス派に対する皇帝の勅令
6月14日、キルタの司教会議出席
スペインの司教オロシウス、アウグスティヌスの許で学ぶた
めヒッポに来る。
『罪の報いと赦しおよび幼児洗礼について』を書き始める
ペラギウス論争起こる
『霊と文字』を著す
413年 59歳 6~9月、カルタゴに行き、マルケルリヌスの救援を試みる
が、9月13日、処刑される。
『自由と恩恵』『神の国』を書き始める
414年 60歳 『寡婦の善について』を書き始める
『ヨハネ福音書講解』を書き始める
416年 62歳 9月、カルタゴ会議出席
9月~10月、アフリカの司教60名ミレヴェに集まり、ペラギ
ウス主義者の断罪を教皇インノケンティウス1世に要求
『ヨハネの手紙講解』を著す
417年 63歳 9月中旬、カルタゴでペラギウス主義者に説教
418年 64歳 5月1日、第16回カルタゴ会議に出席、5月中旬まで滞在
ペラギウス主義者に対し『キリストの恩恵と原罪』を書く
9月20日、カエサリアに旅し、ドナトゥス派の司教エメリト
ゥスに会う。
419年 65歳 5月25日、カルタゴ会議出席
『結婚と欲情』『魂とその起源』『不品行者の結婚』を書き
始める。
420年 66歳 『虚言に対して』『ペラギウス派の2書簡批判』を著す
ヒエロニムスの死
421年 67歳 エクラヌムのペラギウス派司教ユリアヌスとの論争始まる
『ユリアヌス批判』『信仰・希望・愛』を著す
422年 68歳 6月13日、第18回カルタゴ会議出席
424年 70歳 エラクリウス、ヒッポで聖ステファヌス記念会堂建設
426年 72歳 9月26日、エラクリウスをヒッポ教会の司教に任命。
ミレヴェの司教セベルスの後任を決める。
司教イアヌアリウス、アウグウティヌスの修道院を去る
セミ・ペラギウス主義の問題起こる
『再考録』を書き始める
『恩恵と自由意志』『奨励と恩恵』を手がける
428年 74歳 アリウス派司教マクシミヌスと論争
『アリウス派の司教マクシミヌス批判』『聖徒の予定』を著
す
429年 75歳 5月、ヴァンダル族、北アフリカへ侵入。
多くの司教、教会を去るが、アウグステイヌスとどまる
430年 76歳 5月、ヴァンダル族ヒッポ市を包囲。
8月28日、アウグスティヌス没
以上、『告白録』には似つかわしくない、長い「年表」を書き写してみました。
アウグスティヌスについて、既に知っている方にとって、何か「気づき」となる情報を含んでいれば幸いです。
では、またの機会に、ごきげんよう、お元気で。