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愛情(AFFECTIONS)

「愛」、「愛餐」と続いて、次は「愛情」です。
新約聖書の語源に基づいて、こちらは「心理学事典」の記載などとは異なる趣きになっておりました。以下、引用いたします。

 愛情は人間の感情的愛着である。一般的では人間の「好きなもの」である。人やものに愛情を抱くことは影響を受けること、すなわち、その対象によって心を動かされることである。
 「パトス」と「パーセマ」は新約聖書において、「異常な愛情」、すなわち、正しくない、制御のきかない情緒的な愛情と願望である。(最近の翻訳では、ロマ1:26、ガラテヤ5:24、Ⅰテサロニケ4:5が「情欲」と訳されている)。
 是認されている愛情は「スプランクナ」で表されており、文字通りには「臓腑(はらわた」の意である。ギリシア人にとっては、「はらわた」は「最も激しい情欲の出てくる所」として、ユダヤ人にとっては「思いやりのある愛情の出てくる場所」と見なされている。それゆえ、新約聖書のⅡコリント6:12、12;7:15:ピリピ1:8などの箇所には、この言葉は「愛情」と訳され、コロサイ3:12では「あわれみの心」と訳されている。
 「フロネイテ」(コロ2:3)の正確な翻訳はないであろうが、欽定訳には、「上にあるもにに愛情を注ぎなさい」と、その意味を見事に表してい
責任があるとしているからである。それらのものは意志に統御され、まず第一に神に向けられ、次にきよく、合法的な方法で、人と事物に向けられるべきである。道にはずれた愛情は堕落の最もありふれた原因になる可能性が強い。深い思いやりをもった愛情をもって人々を愛することは、そのような愛情が神を喜ばせること、第一義的なものとされている限りにおいて、それ自体は危ぶむべきものではない。キリスト者は「兄弟の愛をもって互にその見を捧げるべきである(ロマ12.10)」。

上記「聖書はわれわれの特質と方向性について、われわれに責任があとしている」と、その所在を明確にした上で「道にはずれた愛情は堕落の最もありふれた原因になる可能性が高い」と指摘ている。

わたしの教会では「有志の会」という教会内の自由参加による活動グループがあって、そこでは「自分の好きなもの」を、参加者の前で、短いスピーチ(約3分くらい)をする…という活動が行われており、中には「韓流ドラマ」であったり、最近流行りの「何か」であったり…わたしたちは世間とも接点があるので、そこから刺激を受けて、ある特定のものから「元気」をもらったりすることは当然あるのだと思うのですが、これを「ありふれた堕落の遠因」とは見ていないような気がいたします。

このウェスレアン神学の立場からすると、何か、世俗化された一般社会とは断絶してしまう可能性のある…わたしたちが礼拝が終わったあとに派遣される先は、その「世間」であるはずであるのに…その世間と距離を置いて、自らの「共同体」の「殻」だけに閉じこもり、ただ兄弟姉妹という「信仰共同体」と「神さま」だけの、俗世間から遊離した、社会に開かれていない、「閉じた」関係性のみが問われてしまう…社会に開かれた教会になれないのではないか…「教会」とは社会に内包された、その一部です…社会全体と本来的な関係性を持っています…社会に閉じてしまうと、閉鎖的になり、世間からの「風通し」が悪くなると、組織は「カルト化」する傾向を強めやすくなります…そういった危惧のようなものを、今回の「ウェスレアン事典」、「愛情」の解説文へ、雰囲気的に、個人的には「危なっかしいもの」を感じ取りました次第です。

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くり坊
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