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マルコの世界 まえがき

目下、私たちが読み進めております書物は、以下の1冊になります。

今回は、本書の「まえがき」部分を取り上げたいと思います。
その前に、本書構成を、前回に「目次」において明らかにはしましたが…

こちらを、もう少し要約すると、以下のように分けられると思われます。


まえがき
〔序論〕
〔本論〕
〔補論〕
あとがき


一冊の本を読む…「読書」するには、様々なアプローチがありますが、これは「わたし」の我流でしかないのかもしれませんが…自分は、まずは「目次」に目を通して、その全体像、構成を捉えて、イメージをつかみます。
続いて、巻頭にある「はじめに」「まえがき」など…本文に入る前の情報に目を配ったあと、いきなり巻末にある「あとがき」「解説文」「参考文献」などに目を転じます。とくに邦訳書であった場合などは、訳者による解説文は、先に目を通してから、本文に入るようにしております。とくに参考文献は、その1冊が、どこまでを射程として網羅しているのか…の示唆に富む情報となりますので、事前情報として、とても参考になります。

結論から申しますと…

「目次」⇒「まえがき」⇒「あとがき」

この順序で読む進めた後に、やっと「本文」に入って参ります。
今回は、その「まえがき」にあたります。
以下、本書「まえがき」より引用しながら、進めて参ります。

マルコは実に不思議な福音書である。エルサレム教会の中心的指導者たちを徹底的に批判しているからだ。その「弟子批判」は福音書全編にわたっており、しかもきわめて執拗に繰り返されている。それは決していわゆる「愛の鞭」「啓発」「教育」という類ではなく、むしろ「告発」「糾弾」「戦い」と呼んだほうがよいであろう。マルコは弟子たちを批判するためにこそ福音書をのだ。「マルコ」とは、「槌・棍棒」を意味するローマ名である。マルコは、もはやイエスのようには生きておらず、それどころかイエスの生きざまとは全く異なる閉鎖的で権威主義的なエルサレム教会を形成しつつあった弟子たちの上に、文字通り批判の鉄槌を激しくうち下ろしているのである。

『マルコの世界』‐イエス主義の源流‐ より引用

 マルコは実に新鮮な福音書である。そこに現在の「キリスト教」とは全く異なる新しい豊かな可能性が存在している。たとえば、「神の子」や「キリスト」や「主」などという超越論的称号にマルコはこだわらない。イエスをどこまでも一人の「人間」として見ようとしている。したがって、「処女降誕」や「復活顕現」などの英雄伝説をマルコは必要としないのである。
 また、通常はキリスト教のもっとも根本的な事柄とされている「罪の赦し」「悔い改め」「洗礼」なども、マルコにとっては洗礼者ヨハネの教えにしか過ぎない。イエスに従おうとする者は、そのようなヨハネの段階に留まることなく、イエスのもたらした「福音」を信じて生きるべきなのである。さらに、そこに属する者たちだけが救われるような、いかなる「聖なる共同体」(教会)をもマルコは決して認めようとはしない。そこには自由で人間主義的な新しいキリスト教の可能性が存在している。

『マルコの世界』‐イエス主義の源流‐ より引用

初期キリスト教の歴史において、マルコはあまり評判のよくない福音書であった。もちろんそれは、マルコがそのような「弟子批判」や「キリスト教批判」を痛烈に展開していたためにほかならないであろう。マタイとルカは、そのようなマルコを自分たちの「正統的キリスト教」の立場から、根本的に修正するために書かれた福音書なのである。「マルコはマタイの短縮版」というアウグスティヌスの見解以降、現代にいたるまでマルコは権威あるマタイやルカの背後に退けられ軽視されてきた。しかしながら、今こそマルコの主張にしっかりと耳を傾けるべき時であろう。現代の「キリスト教」や「教会」に対しても、マルコは真っ正面から激しくチャレンジしており、根底的な問題提起をなしているからである。

『マルコの世界』‐イエス主義の源流‐ より引用

本書の目指すべき課題は、マルコ福音書のテキストの敷衍(ふえん)を学問的に徹底させようとすることにある。「敷衍(ふえん)」とは、「意義を広くおしひろげて説明すること。わかりやすく言い換えたり詳しく説明したりすること(岩波『広辞苑』第5版)である。したがってたんなる翻訳ではないが、逆にまたたんなる自分勝手な思い込みや感想の類いでもない。著者としては、学問的研究成果をふまえながら、ギリシア語テキストをできるだけ厳密に読み込んでみたつもりである。そして、テキストの背後に潜むマルコの内面世界にまで想像力の翼をはばたかせながら、マルコの語ろうとしているメッセージを現代にもう一度よみがえらせようと努力してみたつもりである。読者には、この部分だけでもぜひ通読していただきたい。

『マルコの世界』‐イエス主義の源流‐ より引用

ちょうど、今、2,000文字なのですが、もう「一ヵ所」だけ、引用をさせて頂きたく存じます。
※「2,000文字」が1回の投稿における適切な文字数だと判断しているため

最後に、次のことを指摘しておかなければならないであろう。すなわち、もともとのマルコ福音書は13章までで終わっており、14章以下の受難・復活物語はいわば「附論」として「半ば機械的に結合した」という見解(田川健三『原始キリスト教の一断面』勁草書房、1968年、トロクメ『受難物語の起源』加藤隆訳、教文館、1988年)についてである。しかしながら、本書においても明らかにしているように、マルコは14章以下の受難・復活物語に対しても、きわめて意識的な「編集者」としての独自の主張を一貫して展開していると判断せざるをえない。したがって、本書においては、16章8節までのテキスト全体が、マルコ自身の書きあげた一つの作品として検討の対象としなければならないであろう。

『マルコの世界』‐イエス主義の源流‐ より引用

ちなみに、本書『マルコの世界』‐イエス主義の源流‐は、2001年1月20日初版発行の書物であり、今日から数えること、20年以上前の書物になります。

著者は、滝澤武人(たきざわたけと)氏は「旧所属」が桃山学院大学教授となっていらっしゃるので、退官なさったのかもしれません。

今回は、滝澤武人著『マルコの世界』‐イエス主義の源流‐より「まえがき」から、ご紹介をさせて頂きました。次回は「あとがき」を、ご案内させて頂く予定でおります。

それでは、皆さま、ごきげんよう、お元気で。

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