知恵と力とお金と元気の寄付
2018年7月に西日本を襲った豪雨。
「平成30年7月豪雨」と名付けられたそれは激甚災害にも指定された。
テレビを一切置いてない我が家でさえ気になり、ネット中継などでその様を見てみればあまりの惨状で目を覆わんばかりだった。
災害はどれも怖い。しかし災害の中でも比較的後を引きやすい「水害」なのではと個人的に思っている。
それというのも水害は時間経過と共に様々な災いを起こすからだ。
発生時の水による災害は容赦なく人の命を脅かし、車や信号などの電気製品にトラブルを発生させる。
同時に汚水や泥が入り交じり、それが町中にばらまかれる。
水が引くのに時間がかかればその水が腐り、また衛生環境の悪化をもたらす。
水が引いても問題は続く。
一度悪化した衛生環境はそう簡単には戻らない。町中の消毒が必要になる。その消毒剤ややってくださる人の確保も重要だ。
そして濡れた電気製品で最も怖いのは「ショート」だ。化学的に作られた「純水」などの一部の水は電気を通さないので濡れても問題がないが、水害の水は泥などに含まれたイオンたっぷりの水である。このイオンに含まれた水は電気を通してしまうので回路内で抵抗となる他の部品を経由せず回路の短絡を起こしてしまい、大きな電流、電圧が起こってしまい時に人の命を危険にさらす。
これから被災地の水に浸かってしまった電線、街灯、信号機など公的な電気部品は確認が必要になるのだ。
普通の雨なら耐えられても泥混じりの水では訳が違う。
加えて一度水害被害にあった田畑は土作りからやり直しだ。家庭菜園をやっている人ならば分かると思うが土作りには時間も体力もかかる。プランター一個でもそれなりに疲れるのに農家の方々はそれがあの広大な面積になる。
助けになるトラクターなどの農機も多くあるにはある。しかしこれらが水に浸かってしまった場合、故障の有無の確認、治せるか否かを確認し、場合によっては購入し直さなくてはいけない。
被害額がとんと予測が付かない。
そしてまた住めるようにするためには家の片付けの必要だ。
洪水と言っても綺麗な水じゃない。泥水だ。ほとんどの物を廃棄することになるが、最低限の分別は必要になろう。
また水害で耐えた家をもう一度住めるレベルに戻すにはしっかり洗浄し、乾燥させる必要もある。出なければ今度はカビなどで家がやられてしまう。
たぶん各々の専門家から見ればその後に続く道筋は思いつけようが、私のスッカラカンな頭では今はこの程度が限界である。
ではこんな時だからこそ被害を被らなかった人はどうすべきなのか。
やるべき事は寄付である。
寄付しかない。とはいっても寄付にはいろいろな方法がある。
お金を出すことだけが寄付ではないのだ。
東日本大震災後、フォークシンガーの松山千春氏はこんなことをラジオでおっしゃっていた。
「知恵がある奴は知恵を出そう。
力がある奴は力を出そう。
金がある奴は金を出そう。
『自分はなんにもだせないよ』って言う奴は元気を出せ。」
私はこの言葉が大好きで、大きな災害が起こるたびに思い出す。
そして自分がどうやって動くべきかを問いただす。
知恵があっても正しく運用されなければ「傲慢」になる。
力があっても正しく運用されなければ「暴力」になる。
金があっても正しく運用されなければ「死に金」になる。
元気を出しても正しく運用されなければ「空回り」になる。
「善意」という良いことからはじまったとしても正しい運用ができなければそれは全て「迷惑」になり「悪意」と変わらなくなってしまうのだ。
では正しい運用をするためにはどうすれば良いのだろうか?
私はまず「知恵」について行動を起こす。
すなわち情報を調べることからにする。しかし災害時は恐怖心も相まって情報が錯綜する。そして恐怖心を煽る情報は自分の心に負担にもなる。
だからこそ情報を減らすことからはじめている。つまり『公的な発表』に従うということだ。
中には政府や役所の言うことなんか待ってたら始まらないし信じられない!というかもいれない。
でも待って欲しい。
現地に知人がいて「絶対的な正しい情報」を得られるならばともかく、ネットやテレビでいう情報は不確定なものが多い。
そんな時に動いてしまっては逆に足手まといになってしまう。
例えば阪神淡路大震災の時を思い出して欲しい。
当時は今ほどネットなどの普及も難しく、みんなが大変だ大変だと多くの衣服や食べ物などの「品物」を送ってくれたそうだ。
しかし「品物」は管理しなくてはいけないのだ。しかしこの管理のスキルは誰しもが持っているわけではない。そのため避難所ではそれらの管理が問題にもなっていたそうだ。
だからこそ「管理スキルがある人」による指示を待った方が良いのだ。
知恵と忍耐が求められる行動だ。しかしこれは勇気ある行動だと私は思う。
現場を無駄に疲弊させることなく、「必要ならば言ってくれ!助けを出す準備はできている」と伝え、その時をしっかりと待つことは「知恵の贈り物」ではないだろうか?
「力」だってそうだ。今は一刻も早く現場に駆けつけなくてはいけないのは一般市民ではない。「専門家」たちなのだ。
彼らの行動の邪魔をしないためにも一般市民は今は現地に駆けつけない方が良い。
災害直後は「専門家の力と知恵」が必要なので今は彼らに道を譲るべきなのだ。
でも私たちが何もできないわけではない。水害後、家での生活をはじめるための清掃や消毒のボランティアは基本的な事を学べば私たち一般市民でも才能と力を発揮できる。なにせ今度は数が必要だ。
インフラがある程度整い、食事事情なども落ち着いてからこそが一般市民のボランティアが初めて才能と力を発揮できるのだ。
その時のために今は専門家に道を空け、無事を祈り、必要なときに動けるように自分の体と心を労り、慌てたくなる気持ちを抑える。そして来たるべき時に善意とその力を発揮するのも「力の贈り物」ではないだろうか?
「金」もまたしかり。残念ながらこういう災害があると心ないものも増えてしまう。街角で募金をお願いします!とやっていた人が詐欺だったりなんてこともあるのだ。
お金は災害時最も効率の良い贈り物でもある。だからこそ早く届かせたいと思うのも分かるのだがだからこそ一呼吸置く必要があるのだ。
まず寄付する団体が信頼できるかどうか、そこをまず確認して欲しい。
寄付金の収支をきちんと出しているかだけでも確認するだけで大概の怪しい団体は排除ができる。
次に被害地域に直接寄付をする方法だ。落ち着いてくると各県、各自治体が公的なホームページなどで「寄付のお願い」を出してきてくれる。それを待ってから寄付するのだって悪くない。
また「そうは言っても家計が・・・」という人に検討してもらいたいのが「ふるさと納税」というのもある。返礼品の魅力ばかり取りただされるが「自分の好きな自治体に納税できる」のが本来のふるさと納税の魅力。
つまり今回の被害地域の名前を覚えておき、後日「ふるさと納税」をすればいいのだ。
もし金銭的な余力があれば「返礼品なし」のものを選べば各自治体の負担も軽くなる。どうせ今住んでいる自治体に税金払っても返礼品はないのだから(笑)こういう時は
「すまんが今年度はこっちを優先させてもらう。」
と思ってやるのもありだと思う。
確定申告でめんどくさい印象の「ふるさと納税」だが最近では「ワンストップ特例制度」というのもある。これは確定申告をせずに納税後書類を送るだけで減税になる方法だ。
確定申告をしない、寄付する自治体は5つまで、と制約はあるものの確定申告を必要としない会社員さんにはありがたい制度である。
最も確定申告もわざわざ税務署に行かず、郵送でやると並ばなくてすむのでふるさと納税だけならば簡単ですのでこちらでもかまわない。
それも難しいならばこれから数年かけて被災地の農産物などを購入することも十分応援になる。被災直後は「買って応援」とはいかないかもしれない。品物によっては復帰に時間がかかるものもある。だからこそ「ちゃんと復帰できました!」と分かってから購入する。
そうしているうちに「ああ、災害とは関係なしにここのこれはずっと買っておきたい・・・」と思うような品物に出会えるとも思う。
長い時間をかけて復興する災害だからこそ、細く長く続ける事も必要なのだ。
善意を純粋に届けられる「金の贈り物」だからこそ無理をしないことも勇気だ。
最後に「元気」についてはどうだろうか?
これこそが災害直後で今は被災地に何もできない私たちができる最良の贈り物だと思うのだ。
要するに「萎縮しないこと」だと思う。
必ずこういうことがあると不謹慎だなんだと騒ぎ立てるが、今被災していない、物流に問題のない人たちがすることは「経済を回す」という大事な役割がある。
もちろん予定通りに品物は来ないかもしれない。でも気にしない。おおらかにそれらを待つことは「元気のお裾分け」にならないだろうか?
そして不安だ、怖い、恐ろしいと怯える人に「大丈夫ですよ、みんなで一番良い方法は何か探っているのですから。必ず良い方法が見つかりますよ。」と優しい言葉をかけることもありだと思う。
Twitterなどでペットの可愛い写真、花の絵、可愛いアニメキャラの絵などをあげていくのもいい。
必ず「不謹慎ですよ」という人がいるが気にしてはいけない。
だって謹慎してたら元気になるなにかが探し辛くなるではないか。
被災などにより元気が出ない人たちに無理に「元気づけよう」なんて思わないでいい。そんなのは傲慢だ。
もし自分が可愛い、綺麗だ、素敵だな・・・と思うものがあったら落ち込む気持ちはあっても勇気を持ってアップするのだ。
他の3つと違って「元気」は贈ることはできない。元気を贈ることは押しつけだ。
元気は相手が自分の意思で受け取るものだからだ。
相手がそれを見たり、聞いたときに「元気が出てきた」というのが本筋だ。
だからこそ自分の「元気」を必要とした人が各自に持って行ってもらうために「元気を振りまく」必要があるのだ。
私が歴史上の人物で心から尊敬している一人に「松永安左ヱ門」という人物がいる。電力王とも呼ばれたがその人生は実に波瀾万丈。そして第二次世界大戦後の日本の復興に全力を傾けた人物でもある。
その人の言葉でこんなものがある。
「同じものでも考えひとつ。やる奴はやるように考えるし、へこたれる奴はへこたれる方へ考えてしまう。」
不謹慎だ、不謹慎だと騒ぐ言葉の裏にはこの「へこたれる奴はへこたれる方へ考えてしまう」というのが有るのではないかと私は思う。
だからこそ「やる奴はやるように考える」という言葉に従い勇気を持って「元気をお裾分け」できたら良いのではないかと思うのだ。
災害や病気、事故などが起こる度に私は
「決して当たり前じゃない『当たり前』の中を生きてきたんだなぁ。」
と思う。
『安全』や『当たり前』は目指すものであり、確定された現象ではない。青い鳥のようなものだ。
私事になるが私は薬の副作用で脳梗塞になり、軽いとはいえ片麻痺や平衡障害という脱げない服を一生着ることになった。
その時に『当たり前』を奪われる絶望もよく味わった。
今、被災している方、被災している方が家族にいらっしゃる方はその絶望に向き合いながらも必死にもがいているのではないかと思う。
だからこそその絶望をどう緩和するのか、そして絶望の中育つ希望をどう芽吹かせるのか、それには自分は何ができるだろうかと考える。
「寄付」というのはもしかすると「絶望や恐怖心を和らげ、それらの付き合い方を覚える」ということなのかもしれないな、とこの文章を書きながら思う。
長文な上、駄文、妙なくそ真面目になってしまい申し訳ないと思う。
ですが良いきっかけをくださったnote公式に感謝すると共に、今回の平成30年7月豪雨により亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。また被災された方々が一日も早く落ち着いた生活に戻られるよう祈っております。