![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/158448090/rectangle_large_type_2_cab5dd312d6aebd840a8411adbf207d4.png?width=1200)
01 故郷の山の見える風景
高台にある寺の門をでると小さな城下町が広がっていた。四方を山と海に囲まれたこの町は、どこか時間が止ったかのように見える。家々はぎゅっと詰め込まれたように並び、海はもう手を伸ばせば届きそうなほど近くに感じた。
山手にある寺から降りてくると川が流れていた。昔、子供の頃によくこの川で遊んだ。父が刺し網を張るとイナやハヤがわんさか掛かった。あの頃の父は今の私より随分と若かったが、いまや父はいない。ふと、空を見上げる。母も父も、祖父母も、おじさんもおばさんも、みんな、元素になってあの空に登って行ってしまった。生まれ故障には法事のために何度か帰省したことがあったが、この町は来るたびに大して昔と変わらないことに驚いた。この町が半島の陸孤島のようなところに在るからなのかとも思ってしまう。
ただ、活気のようなものはなくなっていた。昔は道のあちこちに子供たちが奇声をあげたりして遊んでいたように記憶するが、いまはそんな姿はみかけない。小学生だった時のことを思い出していた。あとで小学校にも行ってみるつもりだった。約束の時間にはまだ間がある。
妻が急に逝ってしまった時、全てが止まったように感じた。定年間近だったため、妻と一緒に永住の地を千葉あたしで探していたが、つれあいがなくなるとしばらくは虚けのように心が空っぽになってしまった。都会での生活は便利だったが、なんだか騒がしすぎてほとほと嫌気がさしてきた。それに年金生活になると、都会のバカ高い家賃がこの先負担になると思えた。思い切って故郷でのんびり暮らすのも悪くない。年金生活だって、田舎なら何とかなるだろう。そう思うと、少しずつ故郷への思いが膨らんできた。
還暦をこえて独り身となった、想い出の詰まった故郷に帰ろう、そう考えると日増しに思いは募った。働くだけはたらいて無職になった男の一人暮らしは身軽だった。
小学校時代に住んでいた長屋の家まで歩いて来ていた。父親の転勤でこの家を出て街に出たのだった。小さなボロ屋だと思っていたが、今でも案外にきれいな外観だった。三軒長屋だったので表札を見ると、驚いたことに、三軒とも表札の名前が昔と同じだった。あれから半世紀も経つというのに。ここを出て私は中学高校大学と進学して就職、仕事半分生き方半分、いろいろな場所に移り住み、あくせくして暮らしてきたと言うのに。この町では時間が止っているのではないか…ここは本当に暮らしやすいところなのかもしれない…と思うと何か嬉しくなってきた。
昔の家から通学した小学校までの道を歩いた。踏切を越えて商店街に入ると魚屋がある、ここは昔の友達の家だった。今でも友達が大将になり商いをやっていた。以前に前を通った時に目が合って、いきなり名前を呼ばれたのには恐れ入った。気の合う、いいやつだったが、また呼び止められたら厄介と思い顔を隠して前を通った。
それから商店街を右に曲がると肉屋がまだほそぼそと営業していた。ここの肉屋で母がよく扇ハムを買って食べさせてくれたが、当時一番のご馳走だった。嬉しいことに今でも売っていたので買った。あとで麦酒のあてにしたい。タマネギをスライスして扇ハムに添え、ポン酢をかけるといいアテになって旨い。歩いたあとの麦酒は本当に旨い。それにしてもこの肉屋はよく生き残っていてくれたと思う。
小学校はまだあった。私の知っている木造の建物ではなく、コンクリートの頑丈そうな造りのものに建て替えられていたが、場所やレイアウトは昔のままのように思った。それにグランドの向こうに見える銀杏の木は当時のままだ。何か、古いアルバムをみているようで現実感はなかった。
駅から数分の場所に元ラーメン店があった。「居抜き物件、格安で譲ります。〇〇円 当初賃貸でも可能。〇〇円」
と、表に張り紙があったので、連絡して物件をみせてもらうことになっていた。店の入り口は開いて、既に初老の男が椅子に腰かけていた。禿げ頭に黒縁のメガネをかけた男は、値踏みするような顔付きでこちらをみてから、「どうも」と軽く挨拶すると、無言で名刺を差し出していた。それから店舗の中を案内してくれた。店と厨房だけの簡素な間取りだった。厨房の奥に小さな裏庭があり、朽ちたテーブルが置かれ、その上に黒い猫が寝そべっていた。
「あの猫は、店主が波止場で拾ってきたんだ」と、親爺がぽつりと説明した。猫はまるで店の主みたいにどっしり構えていて、「まあ、居心地がいいなら、猫と一緒にのんびり暮らすのもありか」と思ってしまう。10坪ほどの小さな物件だったが、二階は住めるようになっていた。フローリングで板張りされ、風呂もトイレもあり意外にも快適に住めそうだった。「奴は、ここに一人で住んでいたんでね。」と不動産屋の親爺はいった。私は、不安に思ったことを尋ねてみた。「駅前のわりには安いようにおもうんですが、なにか訳ありですか?」不動産屋の親爺は独白のように話し始めた。
「訳ありもなにも、マスコミが、地震が来る、津波が来るとバカのように騒ぐものだからこの辺の物件はすっかり安くなってしまった、来年には海岸に建つ市庁舎も高台に移転するんだ、何しろこの町には10分で津波が来るらしいんだよ。心配しなくても津波がきたらそこにある神社の山に上がれば済むことだよ、ここから10分もかからない。」と言い、「ラーメン屋をやるつもりかい」と聞いて来たので、私が、ええまあ、と曖昧に答えると親爺はまた喋りはじめた。
「ここの店主は俺の幼馴染でね、変わった男で、学校を出て都会でサラリーマンをやっていたんだけど、突然に帰って来てこのラーメン屋をはじめたのよ。身寄りはいるが、ここに来てからはずっと一人もんで、ここの二階に住んで、一日3時間しか営業しないの。それでも作るラーメンがうまかったので客がついたよ。あとは飽きもせずに釣りばかりしていたなあ。この先の、浜の端にある波止に飽きもせずに行っていた。こんなこと話すとなんだけど、その厨房で死んでいたんだよ。小さい頃から頑丈な男でね、病気になったことがないと聞いていたが、心臓が悪かったんだなあ。俺ンとこは隣だったんで、猫があんまりうるさく鳴くもんでね…来てみたら倒れていたんだよ。救急車よんで病院に行ったときにはもう死んでいたんだ。」
サラリーマン時代、休みになるとラーメンやカレーを作った。作るたびに冒険をするものだから碌なものができなかった。子供たちをすっかりカレー嫌いにさせてしまった。ラーメン好きということもあるが、現役時代、会社勤めが厭になり、やめてラーメン屋をしようとおもっていたが、結局定年まで会社に勤めた。
不動産屋と別れ、その波止に行ってみることにし、歩き始めた。商店街を真っ直ぐに南に歩くと浜にでた。狭い町なので歩いてもすぐであった。これぐらい町がコンパクトだと歩いてどこでもいける。車がいらないので経費が掛からないなあ、などとうれしくなってくるのであった。
浜に出ると、潮の匂いが風に乗って運ばれてきた。思わず胸いっぱいに吸い込むと、体中に新鮮な感覚が広がる。浜はきれいに整備され、左手には松林が遠くまで続き、右手にはアスファルトの広い駐車場が広がっていた。駐車場の前方に小さな波止が目に留まった。
波止には、麦わら帽子を被った老人が静かに釣り糸を垂れていた。波も穏やかで、今日は絶好の釣り日和だ。ふと声をかけようと、慎重に「今日は波が穏やかでいいですね」と話しかけた。本当は「釣れますか?」と聞きたかったが、釣り師というのは案外気難しい人が多いものだ。無視されると会話が途切れるので、まずは懐柔策だ。こういう場面では、営業マンだった経験が生きる。
老人はゆっくりとこちらに目を向け、少し微笑んだ。「波が穏やかな日が一番だな、心も落ち着く。釣れなくても、こうして海を眺めているだけでいいもんだよ」と穏やかに語った。話を聞いてみると、この老人は定年退職してからもう20年も、毎日のようにこの波止に通っているという。少々の雨や風の日でも欠かさず、まるで波止に出勤しているかのようだと思った。
「見てみるかい?」と老人は言いながら、自分のクーラーボックスを開けて見せてくれた。中には小さなグレやベラ、アジが数匹入っていた。「夏が過ぎるころにはバリコも釣れるようになる。あれはヒレに毒があるから気をつけないといけないが、干して食べるとこれがまたうまいんだ。長いことやってると、魚の旬もわかるようになるよ」と自慢げに話してくれた。
さらに老人は、私が釣りをするのかと尋ねてきた。「子供の頃によく釣をしたので、またやりたいと思っています」と答えると、彼は優しく笑って、「そうかい、ならこの松林の向こう側に漁港の波止がある。あそこなら足場もよくて、初心者でもバリコがたくさん釣れるはずだ」と教えてくれた。
「釣りはいいよ。釣れても釣れなくてもあきないよ。こうやって自分と向き合う時間が持てるんだ。海の音を聞いて、風に当たって、そうしていると、いつの間にか心が澄んでくる」と老人は遠くを見つめながら、しみじみと語った。その姿がとても静かで、どこか達観した雰囲気を漂わせていた。
砂浜に沿った松林の中を歩いていると、左手に古びた市営団地が幾つか並んでいた。古い建物だが、ベランダ越しに見える部屋は今も人が住んでいるようで、いくつかの部屋から生活感が漂っていた。歩きながらふと中を覗くと、部屋のなかの老人と目が合った。思わずバツが悪くなり、軽く会釈してその場をやり過ごした。この団地は昔からずっとそこにあったが、今でも空室が少ないようだ。ロケーションが良く、家賃もきっと手頃なのだろう。入れてくれるなら、こんな所に住むのもいいなあ、と思いつつ歩く。
松林を抜けると、割と立派な漁港が目の前に広がり、何艘もの船が停泊していた。漁港の一番海側にある高い波止に登り、先に見える灯台に向かって歩いていくと、町の向こうに青黒い牛が伏せたような山が見えた。山はまるで町全体を包み込むかのように迫り、雄大で美しかった。確か、あの山は高尾山という名前だったはずだ。ここにいた頃、何度か登ったことがあるが、今改めて見ると、その圧倒的な存在感に気づかされた。そうだ、この山はいつも自分の視界の中にあった。学校の帰り道、大きなギンヤンマを捕まえて放した時も、模型飛行機を飛ばした時も、川でアユ獲りに夢中になり日暮れに家へ戻った時も、常にあの山はそこにあった。多分、これからもずっとそこに在り続けるのだろう。
ふと、忘れていた何か大切なものを思い出したような気がした。その一瞬の悟りが、今日という日を特別なものにしてくれた。先ほどコンビニで買った缶ビールを鞄から取り出し、プルタブを引いて一口飲む。少し汗ばむ体に、冷たい泡がワナワナと心地よく染み渡る。
「帰ってきたんだな」と、しみじみ思う。この風景の中に、自分が見ていたものの中に。
もう一度缶ビールに口をつけると、潮風がやさしく頬を撫でていった。浜辺からは絶え間なく潮騒の音が聞こえている。
「明日、不動産屋の親父に電話してみよう」そう思った。昔、魚屋をやっていた友人にも連絡を取って、久しぶりに会って話でもしたい。もしかしたら、美味しいカツオを持ってきてくれるかもしれない。それからあの山にも登ってみたい。まだ体力のあるうちにトライしておきたい。きっといい風景が見える筈だから。
「明日、気が変わってなければ、電話してみよう。」