怒りの構造
アンガーマネジメントについて現状の見解を一旦まとめておく。アンガーマネジメントの知識がある前提で進める。誰かにとって有益なものになれば嬉しく思う。
日常生活においても怒りを感じる場面は多々あると思うが、それらの怒りは自分自身に向けていることが絶対条件である。自分自身に向けた怒りは、向上心や対抗心に昇華される。
怒りは反応によって引き起こされる二次感情であることは有名すぎる話だろう。怒りは小さなストレスの蓄積によるものであって、①ストレス自体の発生をコントロールする、②発散の方法をコントロールする、部分が重要であるように思う。
ストレスフルになるとやがて無益かつ理不尽で横暴な自我(→要求/欲)によって、自分自身との齟齬による自傷(自堕落な快感へ展開した場合も含める)に発展するか、いずれ応報によって相手からの怒りを買うこととなる。後者は自分自身の中に発生したストレスを相手に渡している(投げつけている)発散方法であり、可視定量化が可能だとすると、消化はされない。受け取った側は、投げつけてきた相手と同様に自分自身の中に同じく発生したストレスを消化した上に相手の分まで押し付けられる形となる。「これやっといて」という仕事の押し付けと全く同じ構図である。
適度なストレスは自分自身への怒りとなり、非常に有用なエネルギーとして働きかけさせることが出来る。なにくそ根性とはよく言ったもので、適切な昇華であれば自己実現にのみ働きかけるように注力できるだろう。しかし、ここで他人が視野に入ってしまうと、ストレスというエネルギーを周囲の蹴落としや擦り付け、またはよく見せたいという感情から虚栄心に発展してしまうこととなり、全体のレベルとして向上することはなくなる。ストレスを過剰に摂取すると精神に異常をきたすので、自分自身のストレスの入り口に関してはコントロールが必要となるが、自分自身へ向けられない人間がいる場合は入り口を強引に広げて注ぎ込まれている状態となり、二人前かそれ以上の消化という仕事をしなければなくなる。
怒りは予想を裏切られた場合に発生するのがほとんどだろう。ストレスの発生を抑える方法として、事象の起こりうるパターンをどれだけ豊富に想定または展開できるかがカギになるのではないか。そのためにはパターンを予測できるだけのさまざまな視点や角度からの知識も必要となる。思考実験の多彩さと深さと試行回数によって決まる。許容できる範囲を瞬時に見極めて危険域への踏み込みを未然に防げるか。既に事象の発生を予測しているので、反応ではなく対応となるので怒りの発生も同時に防げる。発生の危険度を許容できる範囲が広ければ広いほどレベルの上がる幅は大きいが、同時に背負うリスクも比例するだろう。許容できる範囲のことを器の大きさや寛容さとも言える。法律や規則などは、許容できる境界線を定めることを言うように思う。
許容できる範囲には個人差があって、対人関係においては境界線の曖昧さと齟齬によってストレスが発生する。事前に境界線を定める作業自体に自我がある場合はこの時点で怒りが発生してしまうが、この境界線を適切に設定することが怒りの発生を未然に防げる唯一の方法だろう。
善悪の判断がつかない相手に対して、演技の怒りが必要となるケースもあるが、怒りの感情が中心にある怒りは一切なくなるのではないか。これこそが怒りをマネジメントする、と呼べるに値する。
これを読んだところで、たとえ頭では理解しても簡単に出来るものでもない。いくら理性的であろうとしても、無気力でもない限りは一次感情自体が感情の中心となり本能によって支配されるため、怒りへ転換したあとに理性の介入が難しくなるからだ。
しかしどれほどまでに怒りの表現が、ましてや怒りの売買などがいかに無意味かということは想像するに難くないだろう。