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  • aiko 歌詞考察

    詞先作曲である歌手aikoの歌詞を読み解いています。 実はaikoジャンキーです。

  • kuriのあたまのなか

    普段の生活を通して感じたことや、考えたことをまとめています。

最近の記事

雨が降ったら傘をさして、星があったら空を見上げて

あぁ頭が痛い 昨晩はあまり眠れなかった 凍える冬の日 不器用な笑顔を思い出す日 あぁ耳が痛い 喧嘩はそれくらいにしておいて どちらの気持ちもよく汲んで あなたたちは安心して奏でていてください 私たちは私たちがうまくやっていきますから あぁ心が痛い とつぜん星になったきみ 涙が出る間もないくらい 言葉はいつまでも見つからない どれだけ耳を澄ませても 指笛は鳴らない 今日はあなたを想う日だ 飴玉は消えて飲み込むまで 悲しみがゆっくり溶けるまで 悲しみが感謝に変わるまで 今

    • 「置かれた場所で咲きなさい」が言いたいことってさ、

      特に何か考えていた訳では無いですが、いつも通りネットサーフィンをしてたまたま目に映ったのを思い出したのだろう。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉がふと頭の中に降りてきて、思うところもあったのでその意味を考えてみることにする。 昨年度までお務めされていた上司は、私の我儘に付き合って(本当に感謝しかない)、よく耳を傾けてくれた。 そして、「どうしたい?どうなりたい?」と聞き出して、解決法を明示していただき、対話から一緒に解決していこう、というのが基本的なスタンスだった。

      • 100問100答

        1. 名前は? kuri 2. 誕生日は? 3. 年齢は? 27歳 4. 何型? 几帳面神経質なB型 5. 好きな食べ物は? 柑橘類,無塩ナッツ,レバー,お酒,身体に良さそうなもの 6. 嫌いな食べ物は? アク抜きが甘いごぼう 7. 趣味は? 読書,映画,ゲーム 8. 特技は? ルービックキューブ6面揃えられること?あまり無い 9. 何部に入ってる?or入ってた? バスケ部と軽音楽部 10. 自分のいいところ&好きなところは? 諦めの悪いところ,こだわりが強いところ 11.

        • 27

          美容院を予定していた2日前の朝、数年変わらずにいた髪の分け目が突如真逆になった。 するとどうだろう、内向的な性格だった私が堰を切ったように饒舌となり、友好的になり、必要な場面では対立も厭わないような堂々とした立ち振る舞いをする。異性の扱いはおてのもの、喜怒哀楽に忙しく、たまに羽目を外し、可愛らしい失敗をして場を和ませる。果たしてこの姿が理想かと言えば、それはまた別の話。 もちろんここまでのほとんどがうそ。 結局のところ美容院では「どこにでも分けられるようにしますね」と察してい

        雨が降ったら傘をさして、星があったら空を見上げて

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        • aiko 歌詞考察
          13本
        • kuriのあたまのなか
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        記事

          可惜夜にみる夢

          輪郭 白い背景に赤い丸は感覚、机の上にある林檎は知覚、林檎を思い出せば表象、林檎とは観念で即ちイデアである。甘い林檎は追憶、毒林檎の味は空想だ。 そこらじゅうのキュビズムに付与された意味は虚無で、空虚に意味をつける行為こそが生きる意味である。 それで、表象から成る虚構の世界にあなたは何を求めるか。 芸術や美術において物体を模写するうえでの課題に、見たままを描き写す難しさがひとつある。物体の質感をトレースする技術面での難しさはもちろんだが、表象(目に映る林檎の姿形)の奥にあ

          可惜夜にみる夢

          自己矛盾について

          人間が何かについて思考をして答えを導き出そうとすると、たいてい向かう先はひとつの終着点に行き着く。多くの葉を見、幹を観察しようとする人間は色々な方向から思考を進め、その答えに近付いたとき、角度によって矛盾が発生していることに気付く。 問うている内容こそ同じであっても、問い掛ける方向によって答えが変わってくるのである。 思考をしていく段階として、私の場合は全体を俯瞰したあと可能な限り小さく問題の切り分けをし、網羅的に可能性を抽出して、ことの発生があり得るものを繋ぎ合わせていく

          自己矛盾について

          輪郭

          真昼のトロイメライ 実存は本質に先立つ。ただ事物の形や現象があるのみで、意味は身勝手な幻想だ。我々の世界は我々の解釈の中にしか存在し得ないのである。すべては幻想、そして虚無に還る。 しかし、連続して立ち現れる一瞬一瞬を時間の一部に捉え、意味を見出す行為こそが我々の真の価値ではないか。生きる理由なんて実際は何もない。 各々居心地の良い屁理屈を作り上げ、都合の良いフィルタを通した幻想の世界を生き、塗り重ねた嘘が私の生きる理由だと決め込んで喚き散らしているだけに過ぎない。虚無

          真昼のトロイメライ

          生に対しての執着が薄く、死への抵抗が一切無い。幼い頃から今の今まで根源的な欲求を抑圧されてきたように思う。 積極的に生死のどちらにも偏れないまま生まれた惰性で生き続けているのは、おそらく横暴な人間に気付きを与えるためであるように思う。世界にとっての純粋悪は自然と滅びて当然だと思っていて、私が私を蔑ろにするのは純粋悪に迫害されて迎える死が怖くないからなのだろう。 私の身勝手な理由で目に見えない相手を敵に回して戦い続けているのは世界がよりよくなって欲しいからであって、理想郷に自

          真昼のトロイメライ

          自己の発生と認識の考論

          私は私の人生に対しての責任をあまりに重く捉えていたのかもしれない。過剰なほどに自分自身を意識していないと、自分自身を見失ってしまいそうな感覚がいつもあった。世間的にいえば自意識過剰な状態と言えるだろう。 人間関係に焦点を当てて話を進めてみたいと思う。 私には友達と呼ばせてもらう相手がいると私自身は思っている。しかしそこには、信頼出来る相手も顔馴染みも会っただけという関係も垣根は比較的薄いと感じている。仲が良いや悪いも正直なところあまりわからなければ、そのさきの恋愛感情に関し

          自己の発生と認識の考論

          SS | ひとしずくの愛、毒の残滓

           きみにとって、きみを彩った数々の物語のうち最も価値のあった出来事は一体なんだったか、教えてくれないか。 わたしにとって、わたしを彩った数々の物語のうち最も価値のあった出来事は、そのどれもをわたしが体験したことにあるのよ。 きみにとって、体験が物語の始まりになるのかい。 いいえ、わたしの物語はきっと、あそこに山積みにされた人形たちにさせたものと同じ。ただ緻密に練られた簡単な物語を追体験しているだけにすぎないわ。理解をしようとしなければ、単純だってこともすぐに理解る。

          SS | ひとしずくの愛、毒の残滓

          不平等性について

          結局は、自分の認識している現実世界と、所謂世間の目と言われる視点にある現実世界との乖離に悩んでいると言っていいだろう。いつまでも大人になりきれないのである。幼児がお菓子コーナーの前でいつも駄々をこねている。 基本的に他人の身に起こったことに対して一喜一憂することは無い。しばしば冷たい人間だと思われる場合がある。普通に過ごしているだけで相手の気持ちが伝わってきてしまうために、いやもしかすると一部だけを見て拡大妄想しているだけかもしれないが、しかしそんなものにいちいち反応していた

          不平等性について

          邯鄲夢

          われわれはわれわれにとって可能な空間の内部にあることに充足している。にもかかわらず時間については、われわれにとって可能な時間の内部にあることに充足しない。この遊星とその周辺とが人類の空間であり私の生活圏が私の生きる場所であるように、この有限な人類史が人類の時間であり私の数十年が私の生きる時間であることに、どんな必然的な悲劇も存在しないはずなのだ。 僕は、大人になれない/備忘録 aiko ばいばーーい 歌詞考察 インサイド・アウトサイダー 愛とは どこ? 『愛とは』沈思黙考/

          邯鄲夢

          歌詞考察 | aiko あたしたち

          2021年9月29日発売予定、aikoの41th両A面シングルより『あたしたち』の歌詞考察をします。 全体の物語としては、あたしたちの行く末を思い描くお話。 終始、aikoが得意としてきた先見性ある視点で語られていて、俯瞰した抽象的な内容を歌っています。「苦手なことに向かってあたしたちは進んでいく」と、誰の中にもある抽象的な感覚が表現されたこの曲の中心部分は、受け手それぞれがどうにでも解釈できてしまいますが、このページでは私なりの解釈で進めていきます。 まずは、あなたとあ

          歌詞考察 | aiko あたしたち

          屍の再発明

          いち理想論者として、生意気ながら、個人的な教育思想について語ってみようと思う。それから自分自身の仕事との向き合い方の一部であるとも言ってきたい。 いまだ桃源郷を夢見る馬鹿な若造の戯言になります。 まず語り手の立場経歴を説明させて欲しい。仕事をしていて、もちろん最初に教わる立場、ありがたいことに教える立場、実践として自立した立場、そして再び教わらなければならない立場、といった割と稀有な経験を積んできた。さまざまな教育者を見てきて、また教育する側に立ってみて、教育のあるべき姿や

          屍の再発明

          言葉

          言葉の不自由さについて思案する。 例えば、同じ言語であっても上手く伝わらない場合がある。話し方の抑揚だったり、言い回しだったり、または長話であるほど伝えたい本質部分が薄れてしまうからであろう。一体何が言いたいんだろう、と思う。 受け取り側の目線に立つと、相手の表現から自分の言語に落とし込むまでに、解体して再構築するまでの理解を挟む必要がある。そのやり取りには「この理解で間違いはないですか?」の確認作業が必要となる。 何かを伝える為には、教える側が教わる側と同じ視線の高さまで

          没頭

          たびたび語っている虚無感について、打開案はないかとしばらく考えていた。ひとつの到達点に辿り着いたので残しておこうと思う。 答えから言うと、没頭する力があるかないか。 集中力とは少しニュアンスが異なっていて、その場に集中が出来るか。言い方を変えれば、盲目的になれるか、精神をそれだけに100%向けられるか、無我の境地にいちはやく立てるかといったところか。マルチタスクができてしまう器用貧乏な人間や、或いは現状に飽きがある人間が陥りやすいのかなと思う。集中力というと物事に対して取り