可惜夜にみる夢
白い背景に赤い丸は感覚、机の上にある林檎は知覚、林檎を思い出せば表象、林檎とは観念で即ちイデアである。甘い林檎は追憶、毒林檎の味は空想だ。
そこらじゅうのキュビズムに付与された意味は虚無で、空虚に意味をつける行為こそが生きる意味である。
それで、表象から成る虚構の世界にあなたは何を求めるか。
芸術や美術において物体を模写するうえでの課題に、見たままを描き写す難しさがひとつある。物体の質感をトレースする技術面での難しさはもちろんだが、表象(目に映る林檎の姿形)の奥にある物体そのものを見抜く難しさがあるのだろう。
考えてみれば当たり前に林檎は非対称であって、均等な模様は描かれておらず、不自然で無造作なキズが当然のようにある。
しかし、実際には「林檎を描いてみてください」と問われると、おそらくほとんどの人間が「完璧な林檎」を描くだろう。
このように我々の目に映る全てが表象でしかなく、各々が、各々の内在世界の檻に囚われた虚構の世界(しかしそれが正の世界でもある)にしか居られないことを意識していると、なんとも不思議な感覚に襲われる。我々は実際にはどこにいるのか、と。
目に見えるものだけに惑わされず、実際にある不完全な林檎をよく観察しながら表象との差を埋める、またそれこそが常に表象であることに留意しておく必要がある。
そもそも存在には、時間と空間が必要である。
私は思い出のある場所へは行きにくい。それから、思い出のある品を見るのも難しい。その奥には必ず誰かがいるからである。こういった体験は誰しもにあるのではないか。
歳を重ねただけ増えていくそれらはいつもそこにあって、既に到底抱えきれる量ではない。私自身生きにくいなと思う原因ではあるが、自我を形成してきたそのものでもある。本来悩むものでもなく、また悩んでも仕方のないものなのだろう。
表象とは、つまり私自身である。
こういった哲学の無意味さや無力さは、好きだ。
明けてしまうのが惜しくなる素晴らしい夜である。