自己矛盾について
人間が何かについて思考をして答えを導き出そうとすると、たいてい向かう先はひとつの終着点に行き着く。多くの葉を見、幹を観察しようとする人間は色々な方向から思考を進め、その答えに近付いたとき、角度によって矛盾が発生していることに気付く。
問うている内容こそ同じであっても、問い掛ける方向によって答えが変わってくるのである。
思考をしていく段階として、私の場合は全体を俯瞰したあと可能な限り小さく問題の切り分けをし、網羅的に可能性を抽出して、ことの発生があり得るものを繋ぎ合わせていく方法をよく取る。大まかなフレームが見えたあとに細かな事象の解像度を上げていく。
そのなかでジグゾーパズルで言うところの、絵柄は合っていても最後のひとピースの一辺だけが合わないような状態が平然と表れてくるのである。
わたくしのフィルタによって物事の無意識的淘汰を嫌う私にとっては、常識や定番を疑うところから始めたり、習慣はいつも壊したいとすら思っていて、よくあるもの誰しも出来るものが単純化されたものである前提で向き合った上に、何事もそこまで単純なものではないと常日頃から疑ってかかるような態度でいるので、稀にピースがハマりきらないことがある。
このように、たびたび直面する自己矛盾は単なる理解不足であると無意識的必然的に解釈していた。
しかし、物事の構成として答えが矛盾された状態(たとえば0と1が同時に存在する)も構造的にあり得るものもあるのではないか、と考えるようになった。
言い換えるならば、ひとつの答えが導き出されるのではなく矛盾を孕んだ構造全体がひとつの答えであり、動的でありながら均衡状態にあって、答えはその矛盾された状態によって保たれている、とあくまで感覚的な理解に留まるが掴めてきたように思う。(※動的平衡という表現がまず正しくないが、思いつく比喩として最も近しいのでそのまま使う)
私のような白黒思考人間には「動的に平衡状態が保たれている」の時点で「既に保たれてない」と解釈してさらなる深堀りをしてしまうが、その環境と条件において矛盾が生じた状態がつねであるならばそれらは同時に存在可能である、と言わざるを得ない。
ただ、ある種、妥協しているような答えの出し方には気持ち悪さを覚える。また本来通り思考を続けていれば解決できた問題も答えまで到達出来なくなってしまう危険性もある。この点については留意しておきたい。
ちなみに、この話は「物事はグラデーションに存在し、そのうちのどれか」ではなく、あくまで「物事は0と1を内包して同時に存在する状態が少なからずあり得ていて、そのどちらとも言える場合がある」という内容である。
このような人間の視点のエラーというか、物事に対する向き合い方を変えただけで正反対のことを選択する可能性がある人間の不完全さを自覚しておきたいと思う。