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[天才]になりたかった人たち

ある種の人たちを挑発するための文章です。
ゆえに、ある種の人たちにとっては不快な表現がたんとあります。
ある種の人たちは読まないでください。

私は、反ワク思想をまき散らす人を蛇蝎のごとく嫌っている。
反ワクの人、ではない。反ワク思想をまき散らす人である。
かつ、これは「私が」嫌っているだけであって、他の誰にも私のこの意見を強要しようとは思わない。
「私は反ワクである、あなたの意見には賛同できない」という意思は当然尊重したい。というより、それを尊重することが出来なければ、意見表明自体してはならないと思っている。
だから、単に反ワクである、という人たちの意見を変えようとはまったく思わないし、当たり前だが、変える必要も無い。『自分の意思』というのは、この民主主義の世の中において、わりと大切なもののウチの一つだ。

と。ここまで断っておいて。
だからこそ、人の意見を変えようとする人間というのが嫌いだし、それが反ワク喧伝という「すでに科学的に答えが出たものに対し、無知と感情で民主主義的に勝負をいどもうとしている」民の姿勢が、腹立たしいのだ。

同様に、123便の陰謀論者も嫌っている。
理由は同じだ。
信じる分にはまぁそういう楽しみもあるでしょう、とは思うが、積極的にSNSにばらまく人たちに対しては正気を疑っている。

そもそも、以前、陰謀論について、私は陰謀論、というものをとりあえず「信じない」という箱に入れて絶対体内に摂取しない、という旨を宣言したことがある。
理由は、陰謀論の中にこの世の真実はないからだ。
99%ない。99%ない、ということは、100%ないのと同義である。
故に、信じない。
おかげで、わりと平穏に過ごせている。

陰謀論、というか、トンデモ論含め、それをたとえば「と学会」(故唐沢俊一氏が運営委員をしていた、そういうのを楽しむ集団)のように、趣味としてたしなむという人たちの嗜好は分かるつもりだ。理解できる。
面白いもんな。陰謀論。
信じている人たちの気持ちも分かる。信じる者は救われるというし、何を信じるか、という問題は、この世において自由でなければならない。社会主義ならどうだか知らないが。

しかし、これらをまき散らすとなると話は別だ。
陰謀論、というのは、すごく簡単に言うと「嘘」であり、「法螺」である。
嘘を嘘と見抜けなければ……という、有名なあごひげフランス野郎の言葉があるが、この世の中見抜ける人たちばかりではないし、見抜くにも一定の知識知見教養のリソースが必要なのだ。いったんこれらが広まってしまうと、このリソースを無駄に使って「嘘ですよ」と宣伝しなければならないし、そもそも嘘をつく方が証拠を集めて嘘をつぶすよりよっぽど簡単なのだ。
だから嘘は山ほどはびこるし、火消しに時間がかかる。嘘の撲滅とはまさに「火消し」に等しい。火事を起こすのはヘタすればマッチ一本で出来るが、ひとたび類焼すればその火を消すのに莫大な水をまかなければならない。

なので、私は「陰謀論」を広げる人たちの気持ちが分からない。
分からない、では話が終わってしまうので、一生懸命考えてみた。
出た結論は、「ゼイリブ論」だった。


ゼイリブ(アメリカ 1988) という映画をご存じだろうか。

B級SFホラーとして、けっこうヒットした映画である。ちなみに同名の邦画(キムタク主演)があるが、これは別もんである。

――仕事を求めて町に流れ着いたネイダが、教会でサングラスを発見する。
そのサングラスを通して見ると、人間が奇怪な妖怪(侵略者)に見え、さらには至るところに人間を操る洗脳標識を見つけた。

そういう映画である。

当然、ネイダは「このサングラスをかけてみろ!」と仲間を説き伏せ、侵略者の正体をサングラスをかけさせて見るよう迫る。仲間は侵略者の正体を最終的には信じ……と、話は展開していく。

私は、この映画を初めて見たとき、言いようのない腑に落ちなさを感じた。
当然、映画のストーリー的には、サングラスは「真実を見せるキーアイテム」として機能しており、そうであることを前提としている。

だが。
逆だったらどうか?
実はサングラスこそが洗脳装置であり、かける人間を洗脳にかけているとしたら?
まぁ、映画の中ではそうではなかったのだが、そうである可能性をネイダはいつ、捨てたのだろうか、という疑問は残る。

転じて。

私は、このサングラスこそ陰謀論であり、陰謀論発信者はつまり、「能(脳)が足りないネイダ」だと思う、ということだ。

なぜ「能が足りない」と分かるのか、というと。

実は陰謀論発信者は、過去に「悲しい迫害」を受けている場合が、非常に多いからだ。

「♪天才だったころの俺にまたつれてって」
という歌を、Syrup16gというバンドが過去、歌っていた。
かつては誰しも天才だったのだ。
天才の正体というのは、自己肯定感のお化け、である。
天才というのは基本、自薦はあっても他薦は非常に希少である。
自薦の天才たちは、未成年のうちは、世にあふれる。

しかし。
だんだん天才たちは、自分の天井と底を世間から知らされていく。
天才であるはずの自分に天井と底をつけ、価値判断をし、そうでないやつを貶め追い詰め点数をつけ馬鹿だと罵り赤点で再教育してくる。その悪辣な奴の正体は――「科学」である。

「教科書では教えてくれないこと」を、ある種の人は知りたがる。
それは、ある種の人が「教科書が教えてくれたこと」を、ほぼ満足に咀嚼できず、理解できず、それゆえ先生や親や友人や学校や赤の他人の口を介して「馬鹿だ」と言われ続けてきたからである。
実害を与えたのはこの場合、その先生や親や友人や学校や赤の他人だが、原因を作ったのは科学である。
学校で教える教科は全て「科学」を礎としている。だから、先生や~の口を借りて罵られた場合、これは科学がそのある種の人たちを罵っているに等しい。

だからある種の人たちは科学が嫌いになる。
嫌いになり、敵になる。
敵になり、唾棄すべき存在になる。
唾棄すべき存在になり、、、、、、、科学を「でまかせの嘘つき野郎」と信じ込むことになる。

ではそのある種の人は、科学の代わりに何を信じるかというと……。
自分たちでも理解出来る、「一瞬のひらめき」である。

自分たちを罵り馬鹿にした奴らより、自分が劣っているわけがない。
むしろ奴らより俺の方が天才だ。
かつて天才だったある種の人たちは常に、そう考えている。
そういう人たちのところに、そっとサングラスが置かれる。
ゼイリブなサングラスだ。
そのサングラスは、科学を奉じて生み編まれたたとえばmRNAワクチンや、たとえば123便の事故究明の一切や、たとえばレプリコンワクチンや、たとえば医者や、たとえば原発や、たとえば政治家たちを、たちまちのうちに大悪人へと映し出す。
科学そのものが気にくわない彼らにとって、それらの物、人の行動が、科学において舗装された知見の上を歩んでいる、というそのことで「唾棄すべき存在」となることは確定している。
なのでそのサングラスを通して見たものが容易にそういう人たちの中で「真実」となるのだ。

そのサングラスをかけるかぎり、かけた自分はあの天才より上に立つ天才となれる。サングラスをかけた自分だけが、サングラスを通して見た真実を知っているからだ。サングラスをかけるかぎり、あんなになりたかった天才になれる。世の天才を蹴落とし、自分が天才に取って代われる。
だから。
サングラスそのものの作りを疑うことはない。
そしてそのサングラスは嫌いたい人を嫌うべき人のように見せてくれる。
だから、人に勧める。このサングラスをかけてみろと。

これが、私のいう「ゼイリブ論」である。
日本の慣用句に、「色眼鏡で人を見る」、というものがある。
色眼鏡とはサングラスのことだろう。たぶん。
昔の人は偉かった。

サングラスの方に問題があることを、喝破していたのだから。

結論。
陰謀論は、信じても、広めるな。
なぜなら貴方の大切な真実は、他人にとってはただの法螺なのだから。

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