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感情がないがしろにされてきた社会

好きなことをただ語る稿です。

以前私はこのno+eで、
「人間は性利己(性善説も性悪説も間違っている。人間が本来持って生まれるものは「利己心」である、という説)の生き物である」
と申し上げました。
そして、その本質に一番沿う政治形態は資本主義かつ民主主義である。
とも。

ですがチャーチルがいみじくも
「民主主義は最悪の政治形態と言うことができる(ただし、これまで試みられてきた他のあらゆる政治形態を除けば)」
と言ったように、少なくとも民主主義も資本主義も、大きな問題をはらみつつ蠢動しているたぐいのものです。

民主主義×資本主義。以前はこの政治経済形態の「よいところ」を挙げてみたので、今回は逆に、悪いところを挙げてみましょう。
……とは申しましても、そんな言説はあまりにも繰り返しこの社会において歴史的に語られつくしており、むしろ食傷の気味すらあります。
なので端的に、少しだけ申し上げるならば。
民主主義×資本主義の最大の問題点は、
「貧しい人たち、弱い人たちが社会において無為にすり潰されていくことに、一切の斟酌がない」
ことでしょう。

もっとはっきり言うなら、
「弱者が死んでも気にかけない」
社会であることです。

だからこそ、民の富を国家で管理し、公平に分配すれば平等が訪れる、というような政治形態を思いついたりしたのです。過去の人間は。

ですが。
政治、という道具はいわば整地におけるブルドーザーのようなもので、「きめ細やかな配慮」をするには道具そのものが大きすぎます。
ぶっちゃけて言うとですね。

「粗野で乱暴で、それゆえに社会から排除され、毎日近所の人間に暴言を吐きながら酒をかっくらいごろ寝している弱者老人」
も、
「十五歳の時に事故で父母を亡くし、自分もまた視力に障害を負って、それでも、自分と同じようなつらさを持った人のために尽力したい、と、医療関係の仕事につくことを夢見ている少女」
も。

等しく同等に助けなければ政治とは言えない、ということがあるのです。

いわば。
「平等なら本当に公正か」
という問題がある。
前項の例ならば、前者の老人は勝手に死ねと思うし、後者の少女はなんとしても助けてあげたい、と思うのが人情です。

さぁ。
ここではたと手が止まるのです。

資本主義下だろうが社会主義下だろうが。
人間は、前者を見殺しにし後者を助けたいという利己心を本来持っていはしまいか? と。

利己心を得て生まれた人間に一番フィットするのが民主主義×資本主義だと、以前申しました。
しかし、この手の利己心には、民主主義はともかく、資本主義はまったくフィットしていない。どころか、両者まとめて挽き潰すのが資本主義、まであります。

このフィットしない利己心を持て余し、だからこそ人間はこの民主×資本主義の世でこんなにも苦しんでいるのではないか。
そんなふうに思ったのです。

で。
この場合の『利己心』の原資、源流はなにか、と言えば。
それは、「感情」である、と結論づけられるでしょう。
贔屓と呼ばれようが身勝手と叫ばれようが、人間は前者を排除し後者を助けたいというような「原感情」を持っているのではないか、と。こう思うわけです。

感情、というものはむしろ、これまで社会においては
「科学をないがしろにする身勝手な情動」
であり、
「できるだけ社会設計をするうえでは表に出さず、なにかの根拠として使用しない」
ことを前提とされてきたのではないか。
そう感じます。

ですが、感情が利己心といういわば本能から湧出してくるのであれば、人間の感情に社会ができるだけ沿う努力をする、そういう政治形態を作る、という努力は、実はむしろ未来において必要な努力ではなかろうか。
そう考えました。
そしてできれば、感情に沿えば沿うほど人間にとって利がある社会を創出する……富が蓄積すればするほど価値があるという、資本主義にも似た社会。それでいて、感情に沿うことは、富・経済とは一線を画している。富に代わるなにか豊かさ。そのようなものが配分される。そのような社会が理想です。

――さて。
まずは、感情が社会を設計する上でむしろ排除されるべき、と考えられてきた、と申し上げた、その根拠となる記事からご紹介します。
no+eってのはすごいですね。こんなニッチな疑問に答えるような、求める記事がちゃんとある。

「倫理判断は感情の表現にすぎない」というのは、この方が紹介されている哲学者アルフレッド=エイヤーによれば、「情緒主義」というそうです。
先の、前者を排除し後者を助けたいという感情は、いわば情緒主義に陥っている、ということらしいです。
つまり、社会的には情緒主義は「好ましくない」どころか「害悪である」と考えられてきた、ということです。

さて。
しかしやはり、社会は「切り捨て」だけで終わってはいないこともまた、わかります。

実は、社会学者エヴァ=イルーズの論証を元に、日本では同じく社会学者である山田陽子氏によって、「感情資本主義」という考え方が提唱されておりました。

感情資本主義とは、エヴァ・イルーズによれば、経済的行為のエモーショナリゼーションと感情生活の経済化、効率化が同時に起こるプロセス、とのことですが、これだとちょっとわかりにくい。
少しだけ詳述すると、上記で触れた社会学者山田陽子氏の、論述内の言葉を要約するなら、
「感情を排し疲弊するのではなく、感情をセルフコントロールし、感情由来の共感性や愛着、信頼を集団内で築くことで生産性やモチベーションのアップに繋げる。あるいは恋愛や出会いといった情緒的繋がりすら、マッチングアプリ等を使うようなタイパ、コスパを重視する傾向が見られるようになった。このような2つの現象が併存している状態」
ということだと自分は理解しました。

ふむ、どうやら私の本来求めていた解答とはすこし違った場所に着地した概念だったようです。
これは、マインドフルネスがビジネスに浸食し、たとえば会社で従業員の心身の健康を維持するためにEAP(従業員支援プログラム)を導入するとか、あるいは家庭で母親の愛情とだけ考えられてきたものが、公平公正な家事分担など、公平性正当性基準として測られるようになってきた、とか。
感情資本主義とは、いわばそういう文脈でのものだった、ということですね。

これはこれで大切な議論です。
ですがつまるところ、これら感情資本主義は、人間の感情と経済、とくに資本主義とどうにかすり合わせよう、という発想内での努力目標であり、もう一段進んで「感情を経済とはまた別の価値基準として社会に反映させたい」という自分の発想とはやはり、離れているものでした。

まあ、どだい無理な話ではあります。
「価値」は、この資本主義下では富、つまりお金、それに類するものでその多寡を測るしかない。
ですので、なにか……たとえば、感情……をこの社会にすり合わせようと思ったら、それは富 = 経済とすり合わせるしかない。
しかし、感情で富の多寡が決まる社会なんて、そんな不安定な社会形態、恐怖でしかありません。

と。
いまふと、ひらめきました。
私がどっぷり使っていたSNS。旧Twitterや、Instagram、あるいは動画投稿サイトとしてのYouTube。
これらに付属されているグッドマーク。
「いいね」ボタン。

これこそ、今現在、人間感情を社会へとすり合わせた結果として立ち上がってきてはいないでしょうか?

グッドマークをいっぱい稼いだ投稿は、「バズった」と言われ、一定の社会現象として認知される。
グッドをいっぱい稼ぐ投稿者は「インフルエンサー」と呼ばれ、富とはまた独立した(もちろん、やりようでいくらでも富に変換できはしますが)価値を得、社会への影響力として認知され始めている。

反ワクがTwitterを利用して仲間を稼ごういいねを稼ごうとしてるのも、煎じ詰めればこれ。
自身の感情を正義と社会に認めさせたいという哀れな欲求の成れの果てです。

ですが、ことの正邪はともかく。
民主主義×資本主義の政治形態たる現在日本において。あるいは世界において。
少しずつ、「感情」を人間の正当な欲求として認め、社会認知に組み入れる。そんな可能性を、SNSのグッドボタンは秘めている。
そのことが社会そのものに認識されつつあるのではないか。
そういう気がいたします。

いわば、民主×資本主義で感情を排し疲弊した人間が、SNSの感情優先主義とも言うべきエリアで失った人間性をとりもどしている。
そういう言い方もできるのでは。

あのグッドボタンは、今のところただの「承認欲求の発露」としての社会認識しかありませんが。
感情資本主義の一翼を担う、そしてさらに発展させる可能性を秘めたボタンなのかも知れない。

そんな期待もしくは畏怖とともに、この稿を終えるものでございます。
お目汚し失礼致しました。

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