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積読とか、価値とか、めんどくさい。

 読書界隈がなんだか「積読」の話や「作品の高尚さ(価値)」みたいなものへの議論であふれていて、辟易としていた。
 物語に貴賤はないし、本の価値なんて読んだ人それぞれでいいし、積読の是非なんてどうでもいい。

 そこに「読みたい本」があって「読んだことによる満足感」があって、世界の解像度が上がるのであれば、それでいいじゃん。だめですか。

 読書界隈でよくある「これだけ積読している、やばい(俺すごい)」みたいな風潮が、気持ちはわかるけどめんどくさいな、と思っている。

 私自身、積読はたくさんあるほうだと思う。それは、私の買うペースと読むペースが一致していないだけで、読みたいと思って買った本をすぐに全部読めるのであれば、問題ない。

 「年間○○冊読んでます」みたいなのも、「目標○○冊」みたいなのも大々的に言っているのをみると、なんだかなぁと思わなくはない。
 たくさん読むことも、たくさん読もうとすることも、いいことだと思っている。一方で、数字にとらわれているのかも?と感じる瞬間がある。

 高校生の頃は「本をたくさん読む私」が好きだった。容姿も、頭脳も大したことがない一般的な私にとって、誇れるものは「読書量」だけ。その読書量さえも、他にもっとすごい人はたくさんいた。

 大人になって思えば、何冊読むかよりも、自分にとって素敵だと思える本に何冊出会えるかが重要だったと思う。もちろん、数を読めば素敵な本に出会える確率も上がる。今でも、たくさんの本を読もうと思えるのはそのためだ。

 ライトノベルも絵本も純文学もBLも百合もミステリーも全部好きだ。大好きだ。大好きだからこそ、たくさん読みたい。どの物語にも価値がある。物語には貴賤がない。

 評論も人文系も学術書だって、私にとって刺さる言葉がそこにある。価値を感じるから、読んでいる。どんなに難しい本を読んだって、全然すごくない。

 自分に合わない本だって存在する。面白くなかったな、と思うことだっていっぱいある。その本を、褒めている人が多ければ多いほど、自分の価値観が間違っているように思えることだってある。

 何冊読んだら偉いとか、何冊積読したらすごいとか、どうでもいい。質とか量とか、偉いとか偉くないとか、うるさいうるさい!

 好きに読めばいい!自分が多読がいいと思うなら、そうすればいい。質が云々というなら、そうすればいい。ドストエフスキーとかヘッセとかシェイクスピアとか、そういうのが読みたいなら読めばいい。

 どんな風に読もうが、何を読もうが読書なんてただの趣味だし娯楽だし、かっこよくもないし、ためにもならないんだから。ためにならないは言い過ぎか?でも、この本が明確に自分の人生を変えました!なんてどれくらいだろう。人生に一冊出会えればいいほうだろう、そんなもの。死ぬ瞬間にしか、そんな本わかんないよ。

 私は好きだから本を読むし、面白いから本を読むし、読む本が増えてくれたらうれしいから本を買う。それだけ。

 人のスタンスに口出している暇があれば、本を読めばよいと思う。そう思いつつ、どうしても吐き出さないと読書に集中できないので、吐き出しておく。

 なんでもいいんだよ、別に。読書人口が増えて、本が売れてくれれば、出版業界が潤ってたくさん本が出版されて、本屋も増えてくれて、うれしい。ついでに本の価格も下がったりして。

 どんなスタンスでも本を読んでくれる人がいればいいし、私は本が読みたいから本を読む。読書のハードルだけ、上げないでほしい。一人でも、読書する人が増えてほしいから。

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