宝石の国再考 ヒト族の死・成仏
宝石の国、最終巻がでました。
思えば、ノートのきっかけはこれだった。
もう最近はまともに書けていないので、断片的に再考。
1,労働と価値
宝石の国のはじまりは、職探しではじまった。
何をやらせてもだめなフォスフォフィライトの仕事。
フォスはみんなの役に立つことがしたかった。
後にそれはみんなから愛されるためだと悟る。
ほかからの評価を、価値を必要としたため、
ただ日々を無為に過ごせずに職を求めた。
誰も価値をつけられないシンシャだけにできる仕事。
シンシャの性質は金剛ですら価値をつけられずにいた。
その後フォスのおかげでみんなから頼りにされる。
夜の見回りに準じていたころは月を夢見た。
自らに価値をつけてくれる仕事を探した。
労働と自らの価値について。
労働でしか自らの価値をはかれないこと。
本質的な価値が不在の労働で日々を埋める苦痛。
労働力・生産力・経済力という市場価値としての存在意義。
より役立つ、より稼ぐことを価値として教化された苦悩。
加速する社会のなかで、自ら立てなくなったニンゲン。
補足①
金剛を中心に守る構造にしか成り得ない無条件親愛。
金剛は「親」であり、宝石は「子」である。
また「先生」であり、また「生徒」である。
それは、「教育者」と「教化される者」であり、
あるいは「国家」と「義務教育下の国民」でもある。
金剛と宝石の関係は、ナショナリズムの克服にも見える。
また、親を殺さない和解とも読めるかもしれない。
2,意志の獲得と苦悩
フォスフォフィライトは、役立つために奔走した。
奔走した結果、様々な困難に打ちのめされ、
苦悩する過程で思考と意志を深めた。
それは当初持ち得なかった自我だ。
そして、明確になる欲望であり、
煩悩と呼ばれるエゴである。
金剛から離れてフォスが宿したのは、
自由意志というエゴであった。
それは己が運転しているようで、
実は目的地が設定されている。
自由なのは過程だけであり、
結末は決められている。
その閉塞感が僕らを、
うっすらと深刻に、
蝕んでゆく。
破滅への
願望と
祈り
へ
。
3,神性の獲得
フォスフォフィライトは神になりました。
そのためには人間になる必要があった。
それは、
…何かを考えていたけど忘れた。
4,死・無という救済
終わりのない(ような)日常を過ごす苦痛。
自らの意志と加害性にうんざりする。
幸福になるための努力も面倒だ。
そもそも幸福とはなんだろう。
どうして価値にこだわるの?
いつからこうなったのか。
すでに幸福なのでは?
なにが足りない?
望みはなに?
わから
ない
。
何もかもなくなってしまえばよい。
何もかもがなくなってしまえば、
幸福のあとにきっと来る喪失も、
幸福でないと感じる不幸も、
その繰り返しに辟易することもなくなる。
あ、無を希求する「祈り」は、
このようにニンゲンにしか持ち得ない。
だからフォスフォフィライトはヒトの過程を踏む。
…こういうことを考えていたんだっけ?
5,価値を求めた果てに
他者からの評価を、価値を求めずにいられない。
そんな困った指向こそが、フォスの中の人間だった。
そのために、汎ゆる苦悩を引き起こし、また引き受けた。
そんなフォスフォフィライトは終盤で、
人間のいないトコとそうでないトコに二分される。
そうでないトコ、つまり人間のいるトコについて、
その消滅の様子(過程)は本当に美しい。
これまでに経た過程を逆に辿るように消滅するのは、
ずっと求めていた仕事を、やっと達成できたこと、
それを完遂するために、その過程が必要なこと、
同時に、その過程がいかに本来の姿から
かけ離れたものにしたかを印象付ける。
その解釈は様々にできるだろう。
少なくともフォフィライトは、
その仕事を成し遂げることで成仏した。
そして、その仕事とは、後世を遺すことだった。
(これを人間を絶滅させることということもできるが…)
どちらにせよ、みんなの役に立つこと、
みんなに求められる価値を求めていたフォスが、
次世代のための仕事の完遂をもって満足したのは、
いまの我々にとっても必要な倫理観のように思える。
6,人間のいないトコ
ニンゲンとしてのフォスは成仏し、
微小な欠片として、1番純粋な部分が残った。
それは、新しい鉱物生命体として受け入れられる。
新しい鉱物生命体たちは、みんなの幸せが幸せだと言う。
人間には、祈ることしかできない。
あるいは、人間にこそ、祈ることができる。
宝石の国という物語は、祈りの結晶とその光である。
その彗星の軌跡は、誰かの気分をあかるくしてくれる。
労働と価値に苦悩する我々にとって、あまりにまぶしい。
補足②
フォスとシンシャ。2人のすれ違いや関係性と、
それぞれが求めた価値と仕事の質的な違いについて。
それぞれ仕事を求め、みんなの役に立つという評価を、
誰かに求められるという価値を欲しがっていた。
そんな2人の結末を大きく分けたのは、
その「みんな」の範囲の違いであり、
また「誰か」の対象の違いである。
シンシャにとっては、「みんな」は宝石たちで、
フォスにとっては、「みんな」はみんなだった。
シンシャにとっては、「誰か」は主に先生だったが、
フォスにとっては、「誰か」は誰からもであった。
「みんな」の範囲、「誰か」の対象を分けたのは、
所属するコミュニティに対する「疑念」の深度であり、
その懐疑の原動力は生来の「欠乏」の大きさに関わる。
シンシャは、ごく一般的に悩み、また解消した。
フォスは、それよりも深刻に、根本的な解決を目指した。
この「幸福」に対する深度の違いが2人の結末を分けたのだ。
それは、一方が矮小で、他方が高尚というわけではない。
むしろ、一方は慎ましく、他方が傲慢だとすら言える。
しかし、「幸福」を「救い」を「祈り」を得ることを、
誰よりも望み、自らの手で成し得たのはその傲慢さだった。
その傲慢さは、深い孤独から、埋まらない虚無から生じた。
神すら望む傲慢さを持ち得たフォスだけが、神になり得た。
消滅を夢みながら、ゆるやかに生活を続ける。
自死はできないが、楽しく日々をやり過ごす。
シンシャや他の宝石たちはすべてをフォスにまかせた。
それは、まさに他力本願であり、無責任でありながら正しい。
シンシャの幸福には、フォスは不要だった。
また、みんな(宝石)にとっても同じく不要だった。
むしろ、終盤では「幸福」の違いによって敵対すらした。
みんなは限定的な幸福で満足したが、フォスは不満だった。
「ほんとうのさいわい」を望む純粋な心が、
既存の(機能不全の)平和維持装置を破壊し、
ニンゲンの業とも言うべきどうしようもなさを滅し、
最終的にその極小な純粋さは、新しい生命体に迎えられる。
宮沢賢治のユートピアはここにあった。
仏教的な救い、極楽浄土を漫画に見ることができる。
フォスフォフィライトはどうすればよかったのか。
またシンシャは、どうしてあんなに酷いのか。
そういう疑問でノートを書き始めたけれど、
今となってはそうは思わない。
それは求めていた幸福の質的な違いで、
またその充足の達成もそれぞれ異っていた。
そこには断絶も貴賤もない、ただ在り方の違いだ。
自らの望みがどちらに在るのか知るだけでもいい、
あるいは、相手の望みがどちらなのかもわかるといい。
それだけで、不要なすれ違いを起こさなくて済むだろう。
フォスフォフィライトとシンシャの関係は、
そういうものだったのではないかと思う。